野狐禅 「不落因果」と「不昧因果」 [ものの見方、考え方]
大修行をするということは、因果の法則を無視するとか、因果の法則を超越するというような、そんな意味ではなくて、
此の複雑極まりないところの因果の法則というものは、
実は普通の人間にはわからない。
その因果の法則をハッキリさせること、ごまかさないだけのことである。
~中略~
不養生をすれば病気をするという因果、それをハッキリさせる。
いい加減にしておかない、
これがひとつの「不昧因果」です。そうして、ハッキリその因果の法則に従って実践するーこれが修行です。
つまり、科学をはじめ、すべての学問は「不昧因果」であるわけです。
安岡 正篤
運命を開く―人間学講話
プレジデント社 (1986/11)
P13
百丈野狐
<洪州の百丈山大智禅師のもとでの話であるが、小参のおり、一人の老人がいつも大衆(修行僧)に混じって説法を聞いていた。
大衆が退出すると、老人も退出するというようすであった。ある日のこと老人は退出しなかったので、師(百丈)は、その老人に質問した。
「目の前に立っている者は、いったい何物だ?」
老人が答えていった。
「私は人間ではありません。はるか遠い昔、この百丈山の住持(住職)をしておりました。あるとき、学人から、「大修行をしているひとも、因果の道理に支配されるのでしょうか、されないのでしょうか?」と質問されたので、私は、「因果の道理に支配されない」と答えました。そのため(その答えが誤りであったためか)あとの五百生を、きつねの身体を受けております。
今、お願いいたします、どうか和尚さま、私に代わって一転語をさし示してください。
そして、できることならばキツネの身体からお救いください」と言って、質問した。
「大修行をしている人も、因果の道理に支配されるのでしょうか、されないのでしょうか?」
師(百丈)は言った、「因果の法則は明らかであり、くらますことができない」。老人はその言葉を聞いて大いなる悟りを得た。>
不落因果・・・因果に落ちないこと。因果の道理に左右されない。
不昧因果・・・因果をくらまさないこと。因果歴然と同意。
角田 泰隆 (著)
禅のすすめ―道元のことば
日本放送出版協会 (2003/03)
P134
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