相手の感謝を期待するな [対人関係]
恩を施すものは、内に己を見ず、外に人を見ざれば、即ち斗粟( とぞく)も万鐘の恵みに当たるべし。
物を利する者は、己の施しを計り、人の報いを責(もと)むれば、百鎰( いつ)と雖( いえど)も一文の功を成し難し。
洪自誠
守屋 洋 (著), 守屋淳 (著)
菜根譚の名言 ベスト100
PHP研究所 (2007/7/14)
P165
人に恩恵を施す場合には、恩着せがましい気持ちを現したり、相手の感謝を期待するような態度を見せてはならない。
そうすれば、たとい米一斗の施しでも、百万石の値打ちを生む。
人に利益を与える場合には、効果を計算したり、見返りを要求してはならない。
そんなことをすれば、たとい百金を与えたとしても、一文の値打ちもなくなる。
人間とは生まれつき感謝を忘れやすくできている。
だから絶えず感謝を期待していることは、みずから進んで心痛を求めていると言ってよい。
デール・カーネギー (著) 香山晶 (訳)
道は開ける
ハンディーカーネギー・ベスト
創元社 (1986/11)
P195
幸福を発見したいと願うなら、感謝とか恩知らずなどを考えずに、与えるという内面の喜びのために与えるべきである。
P197
1888年、米国ミズーリ州の農家に生まれ州立学芸大学卒業後、雑誌記者、俳優、セールスパーソン等雑多な職業を経て、YMCA弁論術担当となり、やがてD.カーネギー研究所設立。人間関係の先覚者として名声を博す。1955年、66歳で死去。
道は開ける ハンディーカーネギー・ベスト (2) Handy Carnegie’s Best
- 作者: D・カーネギー
- 出版社/メーカー: 創元社
- 発売日: 1986/10
- メディア: 文庫
「堯や舜という理想的な天子が居りましたときも、人民たちは「日出でて作し、日入りて息す。井をうがちて飲み、田を耕して食う」といい、口に食物をほおばり、満腹して腹づつみをうって「帝何ぞその間に力あらん」と、すなわちそのことに天子なんて何の関係もない、と申しました。このように、陛下もいま、確かに人民を包容して養っておられますが、彼らは、日々その恩恵をうけていても、そんな意識は全くないというべきであります。
~中略~
理想的な天子に統治され、理想的な政治が行われたとされる伝説の時代でさえ人びとはそう思わなかったのだから、唐の太宗の時代であれ現代であれ、そう思わないのが当然であろう。
日が出ればラッシュアワーにもまれて会社に行き、日が暮れれば帰宅して休む。月給をもらって食べ、ボーナスで一杯飲んだツケを払う。「政治、何ぞその間に力あらん」。その間に営々と築きあげたマイホームを「政府が賜う所」などといわれれば、「とんでもない。冗談をいうな」ということになろう。
同じことは経営者と社員にもいえるであろう。会社が経営の基本を誤らなかったから、隆々と栄えて多顎の給与や賞与を払うことができる。だが、基本を誤ればこうはいかず、ついに倒産ということになる。では社員の財物は、「即ち社長が賜う所なり」と社員は考えるであろうか。そんなことは考えないのが、あたりまえなのである。
だが、ここの魏徴の言葉、これは「太平御覧」からの引用だが、いまいったことと少し違ったニュアンスがある。というのは、そういう状態は決して悪い状態でなく、「帝何ぞその間に力あらん」と思われる状態を招来すること、いわば「統治されている」という意識さえも持ち得ない前提をつくり出すことを、政治の理想としている点である。
確かに平和、安全、自由などは「空気」のようなものだから、それが確保されているときは人は意識しないし、これが不可欠の前提で、この前提を創出し維持してくれている者はだれであろうかなどとは考えない。
そして、そう考えねばならなぬときは、それが失われて「自ら保つことを得んや」の不幸な時なのである。
いわば、その存在を意識されないような状態が最高なのだから、太宗も「朕が賜う所なり」などという意識をもってはならない、ということ。
簡単にいえばリーダーたるものは、「感謝しろ」といった意識はけっして持ってはならない、ということであろう。
帝王学―「貞観政要」の読み方
山本 七平 (著)
日本経済新聞社 (2001/3/1)
P89
六 ある人は他人に善事を施した場合、ともすればその恩を返してもらうつもりになりやすい。
第二の人はそういうふうになりがちではないが、それでもなお心ひそかに相手を負債者のように考え、自分のしたことを意識している。
ところが第三の人は自分のしたことをいわば意識していない。彼は葡萄(ぶどう)の房をつけた葡萄の樹に似ている。葡萄の樹はひとたび自分の実を結んでしまえば、それ以上なんら求むるとこはない。~中略~
であるから人間も誰かによくしてやったら、〔それから利益をえようとせず〕別の行動に移るのである。あたかも葡萄の樹が、時が来れば新たに房をつけるように。
マルクス・アウレーリウス 自省録
マルクス・アウレーリウス (著), 神谷 美恵子 (翻訳)
岩波書店 (1991/12/5)
P74
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