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明聞我執を捨つべきなり [宗教]

仏菩薩は人の来て請ふときは身肉手足をも截れり。
況や人来て一通の状をこはんに、名聞計(ばか)りを思うてその事を聞かぬは是れ我執深きなり。

~中略~
理非等のことは我が知るべきに非ず。只一通の状を乞へば与ふれども、理非に任せて沙汰あるべき由をこそ人にも云ひ状にも載すべけれ。
請け取て沙汰せん人こそ理非をば明らむべけれ。
吾が分上にあらぬ此(かく)の如きのことを、理を枉(まげ)てその人に云んことも亦非なり。

~中略~
所詮は事に触て明聞我執を捨つべきなり。

懐奘 (編集), 和辻 哲郎
正法眼蔵随聞記
岩波書店; 改版版 (1982/01)
P38

-91586.jpg大分マリーンパレス水族館「うみたまご」

永平寺の開祖道元(1200‐53)が洛南に道場を開いた時、その学風を慕って参じた懐奘(1198‐1280)が、日々に聞く師の言葉を記録したもの。勉学の心得はもとより宗教について死生について等々、人生の根源にかかわる問題が易しく述べられている。忠実な記者の態度を貫いた懐奘の筆によって、道元その人の言葉がよく伝えられているという。

正法眼蔵随聞記改版

「第一には須く、先ず世間の窮通得失栄辱(貧乏と出世、成功と失敗、栄誉と恥辱)を将(もつ)て一切之を度外に置き以て霊台(心)を累(わずら)はさざるべし。
既に此の心を弁得すれば(明らかにできれば)、則ち患ふるところ、已(すで)に五七分は休歇(きゅうかつ)せり」
李退渓

横井小楠―維新の青写真を描いた男
徳永 洋 (著)
新潮社 (2005/01)
P39

P204
 九四四 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引するもの(妄執)にとらわれてはならない。

P402
 総じて人間の習性であろうが、年老いた者は昔を懐しみ、昔あったものを何でも良いものだと思う。
他方若い人は何でも新奇なものにひきつけられ、古いものを破壊しようとする。この二つの傾向は互いに矛盾し抗争する。
これは、いつの時代でも同じことである。最初期の仏教における右の詩句は、明言しているわけではないが、恐らくこういうことに言及しているのであろう。
 しかしどちらの傾向も偏っていて、一面的であると言わねばならぬ。もしも昔のもの、古いものをことごとく是認するならば、人間の文化そのものが有り得ないであろう。文明は過去からの人間の努力の蓄積の上に成立するものであるからである。だから、新しいというだけで跳びついてはならぬ。
 人間はどうかすると、人間の根底にひそむ、眼に見えぬ、どす黒いものに動かされて衝動的に行動することがある。だが、それは、進路をあやまり、破壊のもととなるから、「牽引する者(妄執)」に、とらわれてはならない。
 では、過去に対して、「どちらでもない中道をとるのだ」といって、両者の中間をとるならば、それは単に両者を合して希薄にしただけでにすぎないのであって、力のないものになってしまう。
 転換期に当って、或る点に関して古いものを残すか、或いはそれを廃止して新しいものを採用するか、という決断に迫られるのであるが、その際には、その決断は一定の原理に従ってなされねばならぬ。
 その原理は、人間のためをはかり、人間を高貴ならしめるものでなければならぬ。それを仏典ではサンスクリット語でarthaと呼び、漢訳では「義」とか「利」とか訳しているが、邦語でいえば「ため」とでも言い得るであろう。それは「ひとのため」であり、それが同時に高い意味で「わがため」になるのである。
 人間のよりどころであり、人間を人間のあるべきすがたにたもつものであるという意味で、原始仏教ではそれを「法」(ダルマ)と呼んだ。仏はその<法>を見た人であり、仏教はその<法>を明らかにするものである(だから「仏法」ともいう)。その法は、民族や時代の差を超え、さらに諸宗教の区別をも超えて、実現さるべきものなのである。

P229
一〇八六(ぶっだが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
一〇八七 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執着を乗り超えているのである」と。 

ブッダのことば―スッタニパータ
中村 元 (翻訳)
岩波書店 (1958/01)


 人は三つの執着によって苦しむ。
①求めるものを得たいという執着(だがかなわない)。
②手にしたものがいつまでも続くようにという執着(やがて必ず失われる)。
③苦痛となっている物事をなくしたいという執着である(だが思い通りにはなくならない)。
 では、これらの苦しみが止むとは、どういう状態なのだろうか。それは、苦しい現実そのものではなく、苦しみの原因である”執着”が完全に止んだ状態なのだ。
                   ―サルナートでの五比丘への開示 サンユッタ・ニカーヤ

 人が苦しみを感じるとき、その心には必ず「執着」があります。本来心は、サラサラと流れつづける小川のように、苦しみを残さないはずなのに、執着ゆえに、滞(とどこお)り、苦しみを生んでいるのです。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)
P56


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