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我見を離るべし [学問]

 学人の第一の用心は先ず我見を離るべし。
我見を離るゝと云ふは、此の身を執すべからず。説ひ古人の語話を究め常座鉄石の如くなりとも、この身に著して離れずんば、万劫千生にも仏祖の道を得べからず。

懐奘 (編集), 和辻 哲郎
正法眼蔵随聞記
岩波書店; 改版版 (1982/01)
P88

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P113
学道は須く吾我を離るべし。
設ひ千経万論を学し得たりとも、我執を離れずんば終に魔坑に落べし。


永平寺の開祖道元(1200‐53)が洛南に道場を開いた時、その学風を慕って参じた懐奘(1198‐1280)が、日々に聞く師の言葉を記録したもの。勉学の心得はもとより宗教について死生について等々、人生の根源にかかわる問題が易しく述べられている。忠実な記者の態度を貫いた懐奘の筆によって、道元その人の言葉がよく伝えられているという。

正法眼蔵随聞記改版


私が結核で死にそうになったとき、知らないで無我になったら神の世界が目の前に出てきてしまったんですね。そうすると、ただただ感動ですね。

どうしたら見られるかといったら、我をなくすこと以外に神を見る方法というのはない。理屈では見られない。それが神道でいう祓いですね。
罪・穢というのはすべて我ですから、我を祓いなさい。なくしなさい。そういしたら神さまがみられますよと言っているんですが、人間というのはなかなか我をなくすことができない。

葉室 頼昭 (著)
神道 見えないものの力
春秋社 (1999/11)
P215

神道見えないものの力


P332
まずは<私>の視点や認識を疑う、<私>の判断や思考を疑う、そのことによって逆に<私>がありありと浮かび上がってくる、そんなプロセスから始めましょう。
 (求める)心さえあれば、眼の見えるところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えである。
 (「華厳経」)

いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)


七九八 ひとが何か或るものに依拠して「その他の者はつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真理に達した人びと>は語る。
それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
七九九 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

ブッダのことば―スッタニパータ
中村 元 (翻訳)
岩波書店 (1958/01)
P179



P50  人が悩んでしまう理由の一つは、「判断しすぎる心」にあります。
「判断」とは、この仕事に意味があるとかないとか、人生は生きている値打ちがあるとかないとか、彼と自分を比較すれば、どちらが優れている、劣っているといった「決めつけ」「思いこみ」のことです。
「どうせ自分なんて」という自虐も判断。「失敗した」「最悪」「ついてない」という失望や落胆も判断。「うまくいかないのでは?」という不安や尻込みも、「あの人はキライ、苦手」といった人物評も、判断です。
 こうした判断は、不満、憂鬱、心配事など、たくさんの悩みを作り出します。~中略~
「判断」が、人の心をいかに縛りつけているか、今一度振り返ってみましょう。
 たとえばこんな人がいます。占い好きで、運勢がいい、・悪いといつも判断している。噂話に花を咲かせて、「あの人はこんな人物らしい」と詮索している。人と別れた後は、彼はいい人・悪い人、好きだ・嫌いだと評価している。
「自分は絶対に正しい」と思い込んでいる人もいます。人の意見を聞かずに、自己主張ばかりするほと。それどころか、人に意見されると逆上する人。~中略~
「判断」は、自分の性格にも影響します。「こうでなければ」という思い込みは、「潔癖さ」や「完璧主義」「頑張りすぎてしまう」性格を作り出します。「自分はダメな人間だ」という自己否定のレッテルにもなります。
「どうせ失敗するに決っている」「わたしにはそれだけの能力がない」と、ひとりで「結論を出してしまっている」こともあります。これらは全部「判断」です。
~中略~
 目覚めた者は、人間が語る見解、意見、知識や決まりごとに囚(とら)われない。
 彼は、善し悪しを判断しない、判断によって心を汚さない。心を汚す原因も作らない。
 ブッダは、正しい道(方法)のみを説く。かくして「わたしが」という自意識から自由でいる。
                   ―スッタニパータ <心の清浄について>の節

P68
「今日はついていない」「失敗したかも」「あの人は苦手、嫌い」「自分はダメな人間」といった思いがよぎった時は、「あ、判断した」と気づいてください。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)






P82
 一度、自我というものを徹底的に殺し尽くすことです。
禅的に申せば、一度死にきれということです。つまり、いまのお前を支配しているのは全部自我じゃないか。だから、まずその自我を殺し尽くせ、と言うのです。
 じゃあ、どうすれば自我は殺せるのか。禅宗では、そのために、座禅というようなものを行ないます。いわゆる無念無想の境地です。

P96
 なぜ、禅では、これほどまでに修行を厳しくするのか。それには一つの目的があるのです。つまり、禅においては、自由とか平等とか、そういういっさいの人間的なものは末梢的なものと見ます。
そして修行の目的は、あくまでも「自我」というものを殺し尽くすことにあるとする。すなわち、、自我を殺すためには、そういう不自由とか不平等とかいうことをいっさい黙殺しなければならない。自我とは、じぶんのしたいことをしたい、あるいは自分を主張したいということですから、そんなものはこんりんざい認めない。求めるものはただ一つ、つまり自己とは何か、ということです。~中略~
 自己を確立するためには、まず自我を殺さねばなりません。そうしてこそはじめて、自由ということが言いうるのです。

P104
 この、「おれが」「わたくしが」という自我を捨て去るには、それではどうすればよいか。
そこに仏教の本領があります。  仏教では、そのために、いったい自我とは何か、ということをとことん求めていくのです。またそのための懇切なる解説書が数限りなくあります。
何千巻とある仏教経典は、すべてこの自我とは何か、人間とは何か、ということの解脱であると見てよろしい。それを読んでいくうちに、なるほど人間とはそういうものか、ということがわかるようになっている。これは、一つの哲学的な方法であります。
 しかしながら、仏教にはもう一つ方法がある、たとえば、比叡山の修業には「籠山(ろうざん)の比丘」と「回峰の行者」という二つの修業方法があります。
籠山の比丘とは、比丘、すなわち坊さんが、約一二年の間、山に立てこもって勉学にいそしむことをいうのですが、これなどはいま申しました哲学的方法です。
 ところが、人間には二とおりあって、非常に知恵に走る人と、あまり知恵は回らないが体は頑健であるという人と、だいたい二種類のタイプに分かれる。
前者は「籠山の比丘」となってその知恵をひたすら磨く。
しかし、後者は「回峰の行者」、すなわち峰を歩き回る行者となって、一日に十六里以上も山を歩きつづける生活を送るのです。それはもうくたくたの、すべてを忘れ果ててしまうほどの過酷の生活であります。ただやらなければならないからやる、それだけの生活です。 そうした修業を、およそ千日もつづけていますと、最後にはもうわれも彼もなくなっている。自我などというものはどこかに吹き飛んでいます。それは、行より入るところの無我の境地であります。

なぜ、いま禅なのか―「足る」を知れ!
立花 大亀 (著)
里文出版 (2011/3/15)



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