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関東と関西 [日本(人)]

森 毅
 関東文化というのは、「侍文化」だと思います。対して、大阪、関西の文化は「町人文化」だと考えます。身分制度の中でも、兵と農には共通点があります。
昔はとくにそうだったのでしょうが、土地を囲って、太陽の恵みでモノを育て、それを守るというのが兵・農です。

~中略~
それに対して、町人は違います。町人ー職人を含めてーの基本は物売りです。自分でつくったものや細工物を売るわけです。その場合、人が出入りししなかったら商売になりませんから、人を歓迎します。
それも、買う人だけだったらダメで、野次馬がいるから店が繁盛するので、どちらかというと開放的です。
人が出入りするのが家という関西、そして自分のテリトリーを守るのが家という関東、という違いがあるように思うのです。

~中略~
いまでこそ東京は、日本の中心であり、文化も東京のものが標準だというように考えているようですが、そもそも都の原理からいえば、よそものが来る場所であって、東京にしてもいろいろな地方から人間が集って、その良さを生かしていかないとしょうがないでしょう。

森 毅 (著), 養老 孟司 (著)
寄り道して考える
PHP研究所 (1996/11)
P140

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養老 孟司
 関東と関西、その中でも僕や森さんが関わってきた東京と京都に限定していえば、やはり文化、歴史の違いは大きいと思います。
関東というのは江戸にいきなり街を作りました。

~中略~
そしてその周りは、極端な、徹底的な田舎です。関西にくらべたら貧乏で、歴史もなければ文化もない。そこに江戸という町をつくっても、それだけのことですから、京都の文化とはかなり差があることはたしかでしょう。
 それからは、森さんのおっしゃるとおりの侍文化で、明治以降は薩長文化が入ってという感じですから、硬いですね。一言で言えば不器用と言えるでしょう。

~中略~
 都市文化というのは、本来商工業者が作りだすはずのものだったのですが、日本はちょっとそれからずれている感じがします。東京がとくにそうで、人工的に作られた、しかも侍がつくった町で、それが世界の大都会になってしまったから、奇妙なところなんです。

P145
養老 孟司
 僕は、東京の文化がダメになったといわれる原因は、そこで生まれて死ぬことができない場所が増えすぎたからだと思っています。そこで生まれて、そこで死ぬという家自体がなくなってしまいました。
要するに、東京は一時滞在するところで、仕事をしにくるところなのです。それは、もう街とは呼べません。

寄り道して考える

P15
そもそも江戸は、上方文化で作られた。
江戸には上方の大店(おおだな)(大企業)の支店が集り、全国の武士が集住するだけでなく、周辺から多くの商人や職人が集ってきた。
江戸文化はそれら全国の藩士、幕臣、裕福な商人、職人たちによって形成され、一八世紀後半に、大阪や京都とは違った歌舞伎や浮世絵や本を作り出したのである。
江戸っ子とは本来、その江戸文化の創始者たちのことである。

P42
思うに、江戸時代人にとって引越しとは「よりよい生活を求め続ける衝動」のようなもので、荷物が少なく引っ越し費用もかからないことが、それに拍車をかけているのではないか、と思われる。
 もうひとつ、考えられることがある。それは江戸が「旅宿の境涯」だったことだ。江戸は旅人の町なのである。たとえ定住しているように見えても、土に根を張り、土を耕して暮らす里の暮らしから見ると、とても定住とはいえない。生産はせず、流通と消費しかない町なのだ。
全国、いや外国からもさまざまな人がやって来ては去って行く、その一時的な滞在場所でしかないのである。

P184
上方の文化は伝統的で洗練されていて上質、江戸の文化は新奇で荒っぽくて子供っぽいと認識されていたのである
~中略~
 ところが、江戸の出版点数が京都を上回る時代が来た。一八世紀中ごろのことである。
京都が上とされていた出版技術や絵画であったが、江戸で初めて「東錦絵」という多色刷り版画が出現し、それからは、浮世絵といえば江戸の独壇場となった。

P186
縞(しま)や江戸小紋(住人注;武士の裃ファッションの女性版)に見られる渋さは江戸の粋の重要な要素となったが、いまだに京都文化圏では受けいれられていない。
京都や金沢で発展した華やかな友禅も、代々関東に暮らす着物好きな人にはいまだに好まれない。
 江戸の人口の半分が武士である。商人が多数を占める上方とは、ずいぶん雰囲気が異なったであろう。だからといって、武士文化が全体を覆ったというわけではない。
~中略~
理由はどうであれ、日本文化の基本は上方にあり、江戸文化はとても個性的な突然変異だった、と私は考えている。

田中 優子 (著)
江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか? 落語でひもとくニッポンのしきたり
小学館 (2010/6/1)

 江戸っ子は、日本中から大都会に集ってくるありとあらゆる人間を知っています。
大名も、奴も、最高の教養人も、車夫馬丁も、金持ちも、貧乏人も、粋人も、野暮天も、正直者も、ペテン師も、権威、カネ、虚飾、すべてを見て知る立場にあります。
他面、江戸っ子自身、自分の欠陥を笑うソフィスティケーションももち合せています。
これが都会人です。

都会人は、他人との間に一定の距離を保ちつつ交際することを知っています。つまり一人一人が、個性のある独立した人格として付き合うということです。
これが田舎者の西郷と全く違うところです。

岡崎 久彦 (著)
教養のすすめ
青春出版社 (2005/6/22)
P57

教養のすすめ

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にわかに江戸が、東京と改称された。

明治元年7月十七日のことで、

「今ヨリ江戸ヲ称シテ東京トセン」

という、京の新帝が発した詔勅による。

~中略~

「宜シク親臨以テ其政ヲ視ルベシ」

と詔勅にあるが、遷都という法制的に明瞭すぎる用語は使われておらず、詔勅の福書にも「しばしば東西に御巡幸」とあり、今後帝は東京と京都を往復して政務を見られるのであるという解説がなされている。

遷都によって衝撃をうける京都市民の気持をやわらげるためであり、京都を廃都にするという法制上の処置はついにおこなわれていない。
 

花神 (下巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)
P497  








海に面した土地へ意図的に進出してそこに大城郭をつくった最初の人は、秀吉であった。

大阪湾を見おろす摂津国生玉郡の台地に主城を築き、葦の生いしげった低湿地を埋めたてて城下町を区画した。
海という往来自由なものに面しているために、中世的な防禦思想からいえば極めてきわどい場所かもしれないが、逆にいえば海路によって全日本的な政治情報や通達の迅速さが期待できるし、さらにはそれ以上に秀吉にとって大事であったことは、内外貿易の商利をこの海浜城下にあつめることができることである。

「江戸がよろしい」

 といったのは、秀吉のそういう思想からいえば当然のことであり、家康への親切であったと素直に考えたほうがよい。

秀吉の大阪城が大阪湾の奥にあるがごとく、家康にすすめた江戸も類似の地勢で東京湾の奥に位置しているのである。


街道をゆく (1)
司馬 遼太郎 (著)


朝日新聞社 (1978/10)

P111





P44
「フジ三太郎」の漫画家サトウ・サンペイとは、筆者が朝日新聞大阪本社学芸部にいたときから親しかった。いつも、漫画を頼んだ。仕上ると、それを中之島の朝日新聞へ届けに来てくれた。その彼が大決心して東京へ出て行った。「フジ三太郎」で成功した。何年かして帰阪して訪ねてきたので、筆者が「どう、東京と大阪は違うか」と問うた。彼はこんな話をしてくれた。
 漫画ができた。銀座に行く用事があって、有楽町にあった朝日新聞社前を通る。ついでだからと、立ち寄って届けていた。ところが、漫画家の間に風評が立った。「あれは三流だ」という。知らなかった。漫画が仕上がると、電話して、いや自分では掛けないで女房かだれかに掛けさせる。新聞社のオートバイが社旗を翻して掛けつける。格好いい。かくて、一流である。
 親切気を出して、新聞社の受けつけの前でうろうろする。大坂だと、「気さくな人や」と感謝される。本当に偉い人や思わせる。これが東京だと逆になる。「あいつ、ひょこひょこと届けに行くぜ」と、後ろ指をさされる。それは一流のすることではなかった。それで格付けされる。
~中略~
大阪から東京へ行った人を何人も知っているが、みな急にえらくなってしまう。いや、えらい人の態度になってしまう。そうでなければ、東京で地歩を占められないのだろう。

P46
 大阪とは反対に、東京では人に弱点を見せてはならない。箔をつけることが何よりも大切である。だから、人とは建前で付き合う。それこそ、武士の世界であった。
 漫画のフジ三太郎は、たえず自分をおとしめていた。だから、最後までヒラ社員であった。そこに、多くの東京人も内心では拍手していたのだろう。サンペイのフジ三太郎は、まさしく大阪人だった。

P99
 東京の人は大阪へ来て住むと、初めは標準語だったのに、日がたつにつれてぎこちない大阪弁になる。とことが、大阪の人が東京へ行っても、いきなり大阪弁で話しかけ、いつまでたっても大阪弁のままである。少しも隠したり直そうとしない。
当然、地方の人は東京に出ると、言葉のコンプレックスに悩んで必死に標準語を覚える。どこの人も、その土地の言葉に慣れるように努力するものだが、大坂は日本中どこでも平気で大阪弁を通す。
テレビのお笑いのおかげで、それがよく通ずる。大阪人は言葉のコンプレックスがない。~中略~
 一方、地方から大坂へ来た学生の報告では、大阪では比較的地方の方言を気にしないで話せるという。大阪弁自身が標準語でないのと、大阪に言葉への気取りがないからである。
 大阪人は自分の文化に大きな自信を持っている。同時に、本当は文化が多様であることを知っている。東京のように統一したいと考えない。

P186
「夫婦善哉は、何故か、評判が良くなかったが、私は傑作だと思った。ただ、不幸にして描かれた男女の世界が、当代の風潮に反していたことと、それに、あの中の大阪的なものが東京の評家の神経にふれて反感となったのかもしれないと思う。
東京の感情と大阪の感情の対立が、あの作品を中心として、無意識に争われなかったとは言い切れぬと思う。
東京と大阪の感情は、永遠に氷炭相容れざるものと思う」と、岡山生まれの作家の宮内寒彌が「東京文壇に与う」に書いている。
 その底に、東京の大阪への反感と恐れと権威主義があったのだ。もし、この小説の大阪的なものが東北的や九州的だったら、東京の反感はなかったに違いない。
実際は東京には東北や九州などから来た田舎の人が多い。それが権威をふり回す。
大阪にはそんな東京の権威に従わず、東京と対立する何かがある。東京が何か抵抗を感じるのは、日本中で大阪だけである。しかも、作之助は大坂的だっただけでなく、まだ、権威のない新人に過ぎなかった。権威のない者をたたくのは、東京の習性である。
~中略~
 作之助に思想がないと終始たたかれる。それは思想ではなくて、イデオロギーとすべきだろう。
大阪の彼は、一つのイデオロギーを後生大事に信奉したりはしなかった。人間の本性というものを先に見通してしまった目には、イデオロギーとか観念とかは、子供じみた、あるいは言いわけめいた虚飾だと写った。作之助は赤裸々な人間の現実を見通し、作りものの観念を見破っていた。

P218
差し当たり、東京人の疑問に答えておこう。まず第一に、東京には大企業が多い。才覚にたけた大阪人は成功するのだが、大企業になると東京に本社か少なくとも本社機能を移さざるを得ない。大企業は組織と管理で成り立ち、恰好をつけ行儀をよくし横並びを大事にする。
いわば、武士的である。不況でももうけている会社もある。だからというて、はしゃげない。それは、はしたない。
これに反して、町人の町だった大阪はいつまでも中小企業の町である。シュンとしていたら、「あいつとこはあやしいで」と倒産の疑いをかけられる。だから、もし危なくなったら余計に冗談を飛ばして高笑いをする。それを東京から見ると、騒がしく活気があるように思う。
 次に、大阪人の心意気がある。これをコンプレックスと言い直してもよい。
いま、政治も経済も文化も、東京が日本中に号令を発している。どこも、これにひざまずいている。ところが、これに従わないところが二カ所ある。一つは京都である。京都人は東京を田舎とか植民地と内心で見下している。だが、それを表には出さない。それは歴史の教訓である。
織田信長のような田舎者が上って来て権力をにぎる。だから、外面だけは「へえ、へえ」と言う習性が身についている。そこが大阪といささかちがう。
 もう一つが大阪である。これが、京都と違って何かというと「東京が何やねん」と尻をまくり、異を立てる。
近世、江戸には幕府があり、大坂は天下の台所であった。政治と経済が分離していた。だから、大阪は政治にはあまり関心がないが、経済は自分とこやという自負があった。しかし、近代になって政治と経済は一つになり、それが年とともに進んで来る。~中略~ 
大坂に言わせると、経済まで東京に取られたという気分がある。悔しい。だから、東京というと目くじらを立てる。
 これを東京からすると、日本中がみな自分に従っていて一様に見える。大阪だけが違うとなる。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)









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