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ルサンチマン [言葉]

 ルサンチマンは、「怨霊」、あるいは「反対感情」と訳されるが、ニーチェによると、金のないものが財力を持っているものに対して持つ怨念、権力のないものが、それを持っているものに対して抱く反感の感情のようなものをルサンチマンと呼ぶといっている。


 彼は、ヨーロッパの社会ではしばしばこの種のルサンチマンが蓄積され、結集して社会的な力になると主張する。それが爆発するとき、革命になるというのである。


山折 哲雄 (著)
天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相
日本文芸社 (2010/1/27)
P220



天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相

天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相

  • 作者: 山折 哲雄
  • 出版社/メーカー: 日本文芸社
  • 発売日: 2010/01/27
  • メディア: 単行本




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~中略~
ニーチェは、フランス革命と原始キリスト教の発生を同時に説明する理論装置としてルサンマチンという新しい言葉をつくった。


~中略~
それに対して、わが国ではどうであったかと考えると、日本では政治運動にしても宗教運動にしても、さまざまな人間の怨念がひとつの社会的な力となって結集することはほとんどなかったのではないだろうか。
 平安時代の三五〇年の平和や江戸時代の二五〇年の平和、あるいは明治維新の無血革命の背景に、そのような怨念の社会的蓄積や爆発はなかったと思うのである。


そういうことが起こるよりも先に、わが国では、「祀り上げ」の思想によって人間相互の怨念を鎮めてしまうというメカニズムが働いてきたのではないだろうか。


 



天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相

天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相

  • 作者: 山折 哲雄
  • 出版社/メーカー: 日本文芸社
  • 発売日: 2010/01/27
  • メディア: 単行本




山折 もう一つ、背景に「祟り」の信仰もあるんじゃないですかね。古代世界からそうですけど、地上に異変が起こる、不幸な事態が起こる。災害でもいいし、生命的な危機でもいいし、国家の危機でもいい。
特定の人間が原因になっているとか、あるいは病原菌などの原因が本当はあるわけです。それなのにあえて特定の霊や神の祟りであると診断を下す。
その特定の神や特定の人間を祀り上げることによって、現世の人間の責任を解除して、社会の秩序、あるいは国家の安泰を回復させる。


このタマ鎮めによる祀り上げのメカニズムっていうのは、前近代的な思考といってしまえばそうかもしれない。
けえども一面では、人々の心の負担を軽くする。社会の責任を軽減する。そのためのメカニズムだった可能性がある。この伝統の一つの現われとして、おがみやさんたちの世界もあるのかもしれませんよ。


玄侑 ある意味でスケープゴート的ですよね。


玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P38




多生の縁 (文春文庫)

多生の縁 (文春文庫)

  • 作者: 玄侑 宗久
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2007/01/10
  • メディア: 文庫









P182
平等という名の市民社会の正義は、弱者の怨念から発した正義にほかならないとニーチェは言うのである。そして、強者に対する弱者の内的な鬱積、すなわちルサンチマンが正義の名を語って復讐を遂げているのである。ここにあるのは、人間存在の激しい理解である。それは、決して性善的な素朴な本性ではない。
~中略~
 市民生活の正義を支えている「エートス」が、決して、プロテスタント的禁欲などではなく、強者に対する弱者の「負い目」であり「ルサンチマン」であるとするならば、市民社会の正義が、たえず弱者の味方のふりをしつつ、その実、自らの「負い目」の発散であり、強者(と目されるもの)に対する攻撃の形をとるのは当然であろう。
弱者の名を借りて、ルサンチマンは、自ら倒錯した優越性を社会に認知させようとする。しかもこの認知を巡る闘争は、正義の仮面のもとに遂行されるのだ。


P188
 責任は、法的なものを除けば、原則的に道義的なものとなるほかなかろう。したがって、責任の追及は、道義的批判を含むこととなる。個人責任を追及することは、相手に対する道義的な批判を行うことを意味する。
言い換えれば、この批判は、ひとつの正義を前提とし、批判者の側に正義あることを前提とする。あるいは、批判を行うことによって、批判者の側にあることを誇示するという効果をもつだろう。
~中略~
そして、重要なことに、市民社会におけるこの正義の執行は、通常、多数による少数者もしくは特定の個人に対する言論攻撃という形をとるのである。マスメディアが「世論」を代表すると称して、この言論攻撃の誘惑に手をかすことはしばしば起こることであり、一見したところ、多数派の正義がわかりやすく、自明に見えるときには、マスメディアがこの誘惑を退けることができるとは考えにくい。
ここに市民社会に特有の「暴力」が、それも道徳的に仮装された暴力が現れてくる。
~中略~


つまり、正義や道徳などというものは、それ自体ではありえない。われわれが道徳や正義やともなしているものは、ある人たちの「権力意志」の行使にほかならないのである。
そして、市民社会における権力意志は、常に自分より優れている(と思われる)人に向けられる、というのがニーチェのうちたてたテーゼであった。
~中略~
ニーチェは、こうした典型的な市民社会の住人を「弱者」と呼んだ。そして「弱者の総計としての大衆」が現代の社会の主役であると考えた。


現代民主主義の病理―戦後日本をどう見るか
佐伯 啓思 (著)
日本放送出版協会 (1997/01)


 


 



現代民主主義の病理 戦後日本をどう見るか (NHKブックス)

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  • 作者: 佐伯 啓思
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 1997/01/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




 


  アメリカではゴルフであろうと物理学であろうとその道に長じていれば、少々変人でも評価される、場合によっては尊敬される。
一方で、日本ではたとえノーベル物理学賞を受賞しようと、世間のあるいは庶民の常識と異なる思考や行動を取れば、とたんに変人扱いされ、場合によってはその地位から引きずりおろされる。
その感情は、縄文時代、弥生時代から脈々と続いているような気がする。


出る杭は徹底的に打とうとするので、それをわきまえたお金持ちは 一般庶民の前では務めて普通を装う、有能なヒトは無能を装う、決して表には出てこない。
馬寄村の住人


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