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カミとホトケ [宗教]


  「鏡」のようなものを「神体」という。「神体」というのは神や神霊を象徴するもののことだ。「神体」としては、鏡のほかに剣や玉や鉾などが用いられてきた。

~中略~
 こうして「鏡」のような神体は、「神」そのものではなく、「神」をあらわす神聖な象徴物にほかならないが、それならば「神」そのものはどこにいるのだろうか。「神」の正体はどこに鎮まっているのか。

~中略~
「神」はどちらかというと、大衆の面前に裸の姿を現さないものとされ、社殿の背後に鎮座し、神域の森の奥深く身をかくすものとして信仰されて来た。

山折 哲雄 (著)
神と仏
講談社 (1983/7/18)
P45

神と仏 (講談社現代新書)

神と仏 (講談社現代新書)

  • 作者: 山折 哲雄
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1983/07/18
  • メディア: 新書


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P176
基本のところでは、カミはシンプル・ライフの側にくみし、ホトケはバタ臭いカクテル文化にその本来の出自をもっていたのである。
 だから一口にいって、カミは「自然」に近く、ホトケは「文化」に隣接しているといえないこともない。

P184
仏像の表情は、もちろん多種多様であった。
~中略~
森厳なおもむきがないではないが、優しく暖かく、そして美しくかがやいている。そのような全体像の印象は、誰も否定しないであろう。
 ところがこれに対して、神像の表情はそのようになっていない。現存する最古の代表的な神像といわれる京都の松尾神社の神像や、また熊野の速玉神社の神像などを見れば、そのことがよくわかる。
それらの神像では、表情はきびしく苦みばしっていて、冷たい威厳がその全体を覆っている。怒りの表情とまではいかないにしても、静かに沈思し、さすような視線がはめこまれている。
~中略~
人間は死んだのちカミになるということを、われわれの祖先は古い時代から自然に信じてきた。
正確にいえば、死者は祖霊になり、やがて年月をへてカミに祀られるようになった。
そしてもしそうであるとするならば、カミのモデルを人間のどれかの表情のうちに求めようとする場合、心理的にいえば死者の位置への最短距離にある老人のそれが選ばれたのが当然であり、しぜんでもあったということにならないだろうか。

P92
わが国の仏道修行者たちが修行によって最後に到達しようとした境地は、あくまでも心身一如のまま「仏」になるということであって、肉体からの霊魂の救済といった心身の二元論的な考え方にもとづくものではなかったことを忘れてはならない。
~中略~
もしそうであるとするならば、このような心身一如の状態を実現するには、一体どうすればよいかという方法の問題が、次に提起されることになるであろう。
そこでかれらが考えた第一のことが、肉体の鍛錬ということであった。一般に修行とといわれるが、その内容にはさまざまな禁欲の手段が含まれている。

~中略~
心身訓練を通して実現した聖者の系譜を、四通りに分け、明らかにしてみようと思う。
それは法華経主義にもとづく心身訓練、大日如来との合一をめざす密教的な心身訓練、念仏にもとずく浄土教てきな心身訓練、そして最後に心身脱落をめざす禅的な心身訓練、の四種である。

~中略~
わが国の仏道を求める者たちの間には、古来、はげしい山岳修行を貴ぶ風があった。人里はなれた山中で、樹木や滝や動物たちだけを相手に、自分の肉体を、ある場合には死にいたるまで酷使して、その極限をきわめようというマゾヒスティックな願望を彼らは抱いた。
~中略~
そしてそれらの修行者たちのなかでも、「法華経」を信奉する行者たちこそは、もっとも熱心に山岳での試練に没入する人々であったといえよう。
~中略~
単刀直入の神秘体験を避けて、久修練行を選びとる宗教意識というものは、端的にいって死を覚悟する生体処理を受けいれる。
~中略~
こうして法華行者による独自の生体処理は、生体が死体に転ずる接点領域における霊感の蘇りという危ういパラドックスのうえに成立しているといえよう。そこでは生の観念は死の観念と接しているのである。

~中略~
真言行者の肉体修練には、原理的にいって、行の果てにおとずれてくるかもしれない死の観念というものが前提とされてはいない。その点が法華行者による修行と大きく異なる特徴であるといえよう。
というのも真言行者の場合、生ける行者がいかにしてそのまま仏になるかが終始一貫して問題とされ、追求されているからである。
 入定はありえても、入寂という事態はあるべきではない。
~中略~
こうして、真言行者における入我我入型の修行は、生体を聖体に合致っせることによって、死の観念を徹底的に排除している。

~中略~
浄土をユートピアとして構想する意志は、現世に対する絶望とうらはらの救済待望によって生みだされたものだ。同時に、その現世に対する絶望は、実は、それほどに現世をいとおしみ、現世に執着していることの反語なのである。
ユートピア構想は、本来、人間の暗い部分、すなわち愛欲や煩悩の部分に対してストイックな態度をようきゅうすることがない。むしろ人間の心理的な欲求や生理的な欲望の活動を許し、日常生活における自然をみとめる。
 浄土の願生者はこうして、その生体を法華行者のように、聖なるものに無限に近づける必要がない。
~中略~
また彼らは、真言行者のように救済対象との合一、自己を仏にまで高めるような生体の転換を意図することもない。というのも、彼らは、かたときも忘れずに浄土を願う者だからである。彼らの生体処理には生前死を覚悟することがないゆえに、肉体に日常性の水準から離れることがないのである。

~中略~
禅者の禅定は、その神体訓練の型において真言行者の入我我入型と類似する面をもっている。だが、修行者の意識の水準からいえば、道元のいう只管打座(ひたすら座禅に打ち込むこと)は、意識を空無化することによって「成仏」するのを理想としている。
それに対して空海のいう入我我入は、救済物の「入我」と救済仏への「我入」という過程を意識することから成り立っている。そこに「只管打座」とはことなる「即身成仏」の違いがみとめられるのである。
 また禅の行法は、原則的にいって法華行者がおこなう断食、語断、独居といったはげしい禁欲の方法を否定するか、またはそれを軽視している。
たとえば臨済禅で大事にされる「公案」は、師と弟子との対話をふくみ、活発な言語活動からなりたっている。また僧堂における座禅の修行と指導は、あくまでも修行の共同生活を前提にしているのであって、孤立的な固体への逃避すなわち独居の行き方をみとめない。

~中略~
「断食」は法華行者の久修練行型をはじめ、入我我入型、浄土願生型のどの場合においても、行者自体の心身浄化最終段階を示す儀礼行為であった。しかし禅の伝統は、このような方法を確信をもってしりぞけてきたのである。
~中略~
誤解をおそれずにいえば、そこには音声と言葉の連鎖軌道が、儀礼的な几帳面さで敷設されている。参といい、法堂、上堂といい、陞座(しんぞ;高座にのぼってする師家の説法)といい、あるいは拈香(ねんこう)、秉払(ひんほつ;払子(ほっす)を手にしてする説法 )といい、そのずべては禅僧が上堂説法するにあたっての華麗にしておごそかな儀礼手段であった。
彼らはほとんど例外なく、禅籍を講じ、書をかき、そして臨終にあたっては遺偈をかきのこすのが通例である。
 この手と口を動かすことによって聖なる境地を必死に表現しようとする意欲こそは、禅家特有の生き方なのであり、それがまさに、法華行者の修行体系と真向から対立する原理であったといっていい。
こうして禅者の心身脱落や豁然大悟は、決してたんに無の空間から無の空間へと走る一瞬の閃光のごときものではない。それは無数の禅語と公案が舞い狂う、いわば言葉の交響の中に生ずる一瞬即永遠の経験なのである。

~中略~
以上にあげた四類型はその表現や濃淡の差こそあれ、いずれも生死を意識的に統御しようとしている点では共通している。
~中略~
人間が「仏」と交わり、「仏」になろうとする試みは、これまでのべてきた人間と「神」との諸関係とは異なって、徹頭徹尾、肉体という場面、生体という舞台において演ぜられるドラマであったのである。そこにおそらく、神道的な世界観とは異なる仏教的な世界観の特質が見出せるのではないかと思う。

神と仏 (講談社現代新書)

神と仏 (講談社現代新書)

  • 作者: 山折 哲雄
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1983/07/18
  • メディア: 新書



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