加持祈祷 [宗教]
当時の社会(住人注;源氏物語の頃)では、物の怪にはさまざまな種類があると考えられたが、その代表的なものが生霊と死霊であった。
~中略~
突発的な苦しみや病の原因を物の怪に帰するのは、平安時代に広くゆきわたった病院論である。そういう場合は、比叡山などから験者や加持僧を呼んできて、加持祈祷をさせるのが通例であった。
治療のため「くすり」を用いることがなかったわけではないけれども、しかし主たる病気退散の方法は、あくまでも加持僧による祈祷に求められたのである。
山折 哲雄 (著)
講談社 (1983/7/18)
P124
P133
桓武の死後、平安王朝はにわかに仏教僧による加持祈祷の儀礼を重視しはじめた。
というのも怨霊信仰がしだいに広く流行するきざしをみせ、それに対応する呪的装置を制度化する必要が出てきたからである。そしてその制度化のために活発に運動したのが空海であった。
空海そのひとも、その生涯において、加持祈祷をさかんにおこなったということは、なさそうである。
ただ、平安期にあって、かれの末流が、ほとんどそのことについて専業化した。というより、世間がそのように要求した。貴賎ともに密教者に対し、死者をよみがえらせるほどの法力を期待した。
密教とは、日常的には、病舎の病むところを癒し、産婦には安産を保証し、ときに怨敵を調伏するという体系であるとした。末流の学侶、行人、聖、さらには雑密の験者にいたるまで、その次元において世間に応えた。
空海がその元祖の大親玉であると思われてしまったのは、まことに気の毒であるといわねばならない。
高野山管見ー金剛峰寺
司馬遼太郎
井上 靖 (編集)
私の古寺巡礼(四)
光文社 (2005/1/6)
P174
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