SSブログ

悪人正機 [宗教]

 よく親鸞聖人が言うでしょう。「歎異抄」に書いてありますね。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」とあります。

~中略~
これはどういうことかというと、いい人というのは、善人というのではなくて、自分は悪かったと自覚していない人です。
自分は悪いことはしていないという人でも、仏は救おうとされるんです。
そして悪人というのは、私が悪うございあましたと目覚める人です。

そういう人があ救われるのは当たり前である。こういう意味なんですね。
だから、いちばん救えないのは、おれは悪いことをしていないんだ。おれは善人だという人が、いちばん救えない。
 それは神道の祓いとおなじです。一生祓いつづけて罪・穢が祓われるということと同じです。
自分は悪かった、間違っていた。だから、もっと改めましょうという人は救われる。  

葉室 頼昭 (著)
神道 見えないものの力
春秋社 (1999/11)
P24

神道 見えないものの力 ( )

神道 見えないものの力 ( )

  • 作者: 葉室 頼昭
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2013/10/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

2182035

P5
第三章
一、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
しかるを、世の人常にいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや、と。
この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心かけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。
しかれども自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死を離るることあるべからざるを哀れみたまいて、願をおこしたもう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみてまつる悪人、もとも往生の正因なり。
よりて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおおせそうらいき。

P10
第八章
一、念仏は行者のために、非行・非善なり。
我はからいにて行ずるにあらざれば、非行という。我はからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。
ひとえに他力にして、自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・非善なりと云々。

林 顯照(訳著)
歎異抄
朝日新聞西部本社編集出版センター (1983/10)

声聞はもともとブッダの教えを直接聞いた仏弟子を意味していましたが、大乗仏教では、菩薩が大乗仏教の実践者であるのにたいして、小乗教徒を表すことばとして用いられるようになります。
~中略~
「維摩経」では、この舎利弗の扱い方でわかるように、ドラマの筋書きうえでは、たしかに声聞はいつまでも無上のさとりを求める心をおこすことのできない存在として位置づけられています。
舎利弗だけでなく、ブッダ入滅後に仏教教団の統率者となった大迦葉さえも同様に扱われています。
衆生は煩悩をもっているからこそ無上のさとりを求める心をおこしてブッダの恩を報ずることができるが、煩悩を断ち切っている声聞は、たとえ身を終わるまでブッダのさまざまな特性を聞いても、ついに無上のさとりを求める心をおこすことはできないのだ」と歎きました(「仏道品第八)
 

維摩経をよむ―日本人に愛されつづけた智慧の経典
菅沼 晃 (著)
日本放送出版協会 (1999/06)
P234  

維摩経をよむ―日本人に愛されつづけた智慧の経典 (NHKライブラリー)

維摩経をよむ―日本人に愛されつづけた智慧の経典 (NHKライブラリー)

  • 作者: 菅沼 晃
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2022/03/29
  • メディア: 単行本

 


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント