死をどう捉えるか [宗教]
玄侑 私たち坊さんにしても、毎日の死の現場の相手は個人です。けれども、大災害や戦争など、大量死の現象をどう受け止めるかは宗教が問われざるをえない問題です。
たとえば「ノアの箱舟」です。大洪水があって、みんな死んでしまったのに、ある一家だけが助かった。これはいったいなぜか。いわば、お隣は助かったのに、うちはダメだった、その理由ですよね。
キリスト教はそこにまで神の意思を見ようとする。かなりしんどい作業だとおもうのですけれども、キリスト教は神の意思を持ち出してなんとかこれを説明しようとしたわけです。
集団の中の一人の死は偶然に過ぎないとはキリスト教はいえなかった。どの宗教でも信者になかなかそうはいえませんよ。「偶然だ」とずばりと言い切ったのは、老子くらいでしょう。
山折 キリスト教の場合は神との契約によって選ばれた人間は生き残る、そうでない人は死ぬんだ、地獄に落ちるんだという選民思想がありますからね。
ところが老子もそうですけれども、仏教ではどのように考えるかというと、人類が滅亡するならば、自分も一緒に滅亡しようという感覚がある。一人だけ生き残ろう、そのための理屈を考えようという発送あまりない。
仏教的な無常観が根底にあると私は思います。
玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P45
足立美術館2
西洋のほうは、どこか怒りの思想がありますね。聖者を殺した人間に復讐しようとする怒りの思想がある。
東洋のほうはもっと安らかです。ある意味であきらめの思想、悲しみの思想があります。
釈迦の涅槃というのは大事でして、釈迦が死ぬときのことを書いた「大般涅槃経」という本があります。この本には、実は静かな釈迦の死のありさまが書かれている。
クシナガラという田舎で釈迦は死ぬんです。釈迦の死は、すべての人間は死ぬ、生きとし生けるものはすべて死ぬ、その死の真理を人々に知らせるために自分も安らかな死につくという、実に静かな死です。
ドイツの仏教学者オルデンベルグという人が、この釈迦の死のありさまを見て、こう言っています。
釈迦の死は素晴らしい、西洋のソクラテスの死もイエス=キリストの死も、おぞましい死だ。そしてソクラテスもイエス=キリストも、これから行くあの世、これから行く天国のことを説いて死んだ。
しかし、釈迦は天国のことも説かない。人生はこういうものだからと言って静かに死んでゆく。
梅原猛の授業 仏教
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2002/01)
P61
イエス・キリストは死ぬ前に神の国を説いた。死んでから三日後に自分は復活して、またこの世界にやって来る。次にやって来るときは、この世界は神の国になると言って死んでいった。
ソクラテスは死の前に、自分はこの世において肉体から離れ魂の世界のことに従事していた、そういう人間は魂の人の行くべきあの世に行くに違いない、そこで昔の素晴らしい人に会えるのは楽しいことだと言って死んでいった。最後は死後の国を想像していたわけです。
しかしイエス・キリストやソクラテスと違って、釈迦はそんなことを説かなかった。
この世のものは必ず滅び、人間は死ぬと言って死んでいった。その様は非常に理性的であると、オルデンベルグが誉め称えているんです。
梅原猛の授業 仏になろう
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2006/03)
P173
そもそも(釈尊もそう述べているように)生前や死後のことは、すべての人が納得する結論は出ません。科学が語ろうが、宗教が語ろうが、すべての人が共有できる答えはないのです。
つまり、「死んだらそれでおしまい」と考える人、「死んでも霊魂は残る」と考える人、「死んだら輪廻する」と考える人、どれが正解というわけではありません。
でも少なくとも、マジメに死と向き合うことは今をどう生きるかに直結している、ということは言えると思います。
いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
P231
人生の終わりになって、死を恐れる人は多い。宗教家の中にさえ死を怖がる人もいる、と非難する人もいるが、私は当然だと思う。
むしろ、「信仰があっても死は怖いですね」という人の方が、自然で正直でいいと思う。
人生の原則
曾野 綾子 (著)
河出書房新社 (2013/1/9)
P172
心を扱う多くの世界では、「確かめようのない」内容を真理として説きます。宗教も、オカルトも、占いも、「仏教」とひとくくりに呼ばれている思想の中にも、それはあります。
しかし、ブッダの思考法―おそらくかつて実在したブッダ自身の立場―は、「確かめようのないこと」は、最初からとり上げません。
その理由をブッダ自身が明確に述べています。
世界は永遠か、終焉があるか。有限か、無限か。霊魂は存在するか、しないか。死後の世界はあるか、ないか。私はこれらのことを、確かなものとして説かない。
なぜならそれは、心の清浄・安らぎという目的にかなわず、欲望ゆえの苦痛を超える修行として、役に立たないからである。
私は、これらの目的にかない、役に立つことを、確かなものとして説く。
それは、生きることは苦しみを伴う。苦しみには原因がある。苦しみは消すことができる。そのための道(方法)があるということ―四聖諦(ししょうたい)―である。
弟子マルンキャプッタへの教え マッジマ・ニカーヤ
反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)
P133
反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
- 作者: 草薙龍瞬
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2015/07/29
- メディア: Kindle版
二四 マケドニアのアレクサンドロス(18)も彼のおかかえ馬丁もひとたび死ぬと同じ身の上になってしまった。つまり二人は宇宙の同じ創造的理性の中に取りもどされたか(19)、もしくは原子の中に同じように分散されたのである。
マルクス・アウレーリウス 自省録
マルクス・アウレーリウス (著), 神谷 美恵子 (翻訳)
岩波書店 (1991/12/5)
P102
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