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「安全神話」をつくり上げる仕組み [社会]

 ここに電気事業連合会、略して電通連の行ってきた「報道統制」を思わせるおびただしい資料がある。
まず、さまざまな報道機関、メディアに送り続けた抗議書(「関連報道に関する当会の見解」との共通見出し)から一覧する。
~中略~
この一見、丁重にみえる記述につづいて、次段からは「記」と題した詳細な指摘がえんえんと展開される(以下、原文のまま)。
~中略~
 いずれも同じ形式をとって反論の記述がなされる。書いた人物の名はすべて伏せられ、組織の中に身を隠したままの匿名で通す。だが、その背後に控えるものの正体は明らかだ。

 「週刊朝日」だけでない。週刊誌では「サンデー毎日」「エコノミスト」、およそありとあらゆるマスコミが対象となっている。朝日新聞、共同通信、時事通信、毎日新聞、東奥日報、佐賀新聞、西日本新聞、各紙社説。さらにNHK教育TV、TBS、日本TV・・・。
 記事に対する「反論」を「事実関係」と自称する。当方の主張が「事実」であり、そちらはデマか誤認だと断じる。
あらゆるメディアへの巨大スポンサーとして君臨するものの発する「抗議」のブラフ(脅し)効果」は計り知れないものがあるだろう。

 だが、ここに示した報道に対する執拗なまでの警告だけでない。
「安全神話」をつくり上げる仕組みは学校の教育現場での教師、児童、生徒、学生への刷り込み、「
学習指導案」から「ワークシート」の作成、著名文化人の動員、さらに映像を駆使しての特別授業まで、実に広範囲に及ぶ。彼らが「事実」と呼んで社会に押しつけてきた記述の信憑性こそが、いま問われているのではないか。

巨大複合災害に思う
─「原発安全神話」はいかにしてつくられたか?
  内橋克人 (経済評論家)

世界 2011年 05月号

岩波書店; 月刊版 (2011/4/8)
P38

  -83ac6.jpg山口市 清水寺

P117
実際、今回のように津波によってすべての電源が失われてしまう状況は、市民グループがパブリックコメントを通して指摘してきたことです。
しかし、パブコメについては「聞き置く」という官僚文化の中で、市民側からの意見が検討もされず捨て置かれてきたといえます。これが今回の事故の構造的な原因の一つといえるでしょう。
~中略~

そもそも電力会社や原子力安全・保安院には、原子力発電所の安全性について、実質的な安全を考える文化が存在しないといっていい。
手続き論として、形式的に「安全」を整えていけばいいという発想しかないのです。
原発の安全審査のあり方は、喩えるならばロシアのマトリョーシカ人形のようなもので、実際に安全に関する報告書を作っているのは、設計・建設を請け負っている東芝・日立・三菱というメーカー御三家であり、東京電力は、彼らの作成した文書の表紙を「東京電力」に書き換えるだけです。
それを今度は、電力会社から原子力安全・保安院に文書を提出するのですが、保安院は官僚そのものです。
~中略~

電力会社や政府、原発推進派の学者などによる、いわゆる「原子力ムラ」は、そうやって都合の悪い意見には耳を傾けない姿勢で一貫してきました。
いつ破局を迎えてもおかしくない事故を繰り返しながら、本質的な批判にも耳を傾けずにきた結果として、歴史に残る大事故を引き起こしてしまったのです。

飯田哲也

対談 自然エネルギーの社会へ再起しよう
  飯田哲也 (環境エネルギー政策研究所所長)
  鎌仲ひとみ (映画監督)

P119
飯田
原子力安全委員会は、建前として行政庁から独立して国全体の原子力の安全を司るとされていますが、実質的には「原子力ムラ」の中でも文部科学省や旧動燃・旧原研という村を仕切る役割を果たしています。
その一方、原子力安全・保安院というのは経済産業省の「電力村」を仕切る役割です。それぞれに違う村を仕切る役割があるため、お互いに双方のことについては口も手もだしてはならない不文律があるのです。
文科省管轄の放医研も理研も、被爆者が出れば協力するという程度の姿勢です。逆に文科省の管轄である「もんじゅ」の事故のときは、経産省はさんざん馬鹿にして、文科省なんかに任せられないということでプルサーマルに突っ走っていった。

―戦時中の陸軍と海軍のようですね。
飯田 ただの喩えではなく、政治構造としてまったく同じ構図です。それに、戦艦大和と原発や再処理工場は、世界の現実を見ようとせず、過去の成功体験に浸って巨大技術に突っ走る点でも同じです。
参謀本部の無能さや思考回路も同じで、国民を平気で犠牲にする思考までそっくりです。

対談 自然エネルギーの社会へ再起しよう
  飯田哲也 (環境エネルギー政策研究所所長)
  鎌仲ひとみ (映画監督)

P126
 二〇〇八年一一月の科学技術社会論学会年次大会のワークショップ「柏崎刈羽原子力発電所地震災害の政策的意味」の後縁予稿のなかで、私はつぎのような主旨を書いた。

 「(前略)現代日本における原子力は、国策として莫大な人と金と組織が注ぎ込まれ、大多数の国民にとって絶対的な善である点において、敗戦前の帝国軍隊に似ている。その状況で、柏崎刈羽原発の地震被災は、大自然から発せられたポツダム宣言にも擬せられる。
これを無視すれば、ヒロシマ・ナガサキに次ぐ第三の大量被爆である原発震災が近づくかもしれない。
いっぽう、電力会社・政府・御用学者が大自然を客観的・真摯に見ようとせず、規定路線に固執して詭弁を弄し、マスメディアが無批判に「大本営発表」を報道し、芸能人が宣伝に動員され、国民のほとんどが原発は必要で安全と信じている現状は、アジア太平洋戦争中の狂気の日本に酷似している。
(中略)早急に行なうべきことは、前述の安全規制の欠陥を抜本的に改めたうえで既存原発の原発震災リスクを総点検し、リスクが高い順に段階的に閉鎖・縮小する実際的プログラムを考えることである。」
なお、ポツダム宣言と原爆投下の関係は単純ではないだろうが、ここでは「最後通牒」というほどの意味で使った。

P127
 半藤一利氏の「昭和史 1926-1945](平凡社)を読むと、日本がアジア太平洋戦争を引き起こして敗戦に突き進んでいった過程が、現在の日本の「原発と地震」の問題にあまりにも似ていることに驚かされる。
「根拠のない自己過信」と「失敗した時の底の知れない無責任さ」によって節目節目の重要な局面で判断を誤り、「起きては困ることは起こらないことにする」意識と、失敗を率直に認めない態度によって、戦争も原発も、さらなる失敗を重ねた。そして、多くの国民を不幸と苦難の底に突き落とした(落しつつある)。

原発主義の時代
P127
 全国各地の市民の中には、原発が地震で大事故を起こすのではないかと不安になり、少し勉強してみたら不安が確信に変わって、既存の原発の閉鎖を求めたり、新設計画に反対したりという活動に熱心に取り組んでいる人々が大勢いる。ところが日本社会は、彼らに「反原発」「原発反対派」というレッテルを貼って白眼視してきた。

「反」という文字には負のイメージが付きまとい、頑なな教条主義によって反対しているような印象を与える。それを狙って「反原発」と決めつける場合も多い。
 しかし、教条主義なのはむしろ原発推進派(「原発偏執派」といったほうがよい)のほうであろう。
彼らは、みずみずしい感性を失い、合理的思考を放棄して、地震列島における原発の危険性や、電力の使用と供給の多様な選択肢を考えずに、原発にしがみついている。

原発震災
P127
 私は、多くの市民や科学者に較べて遅かったが、一九九七年に雑誌「科学」一〇月号で「原発震災」という概念・言葉を提唱した。
そして、それを引き起こす可能性がいちばん明瞭なのは中部電力の浜岡原発(静岡県)なので、浜岡は廃炉を目指すべきだと訴えた。

 原発震災とは、地震によって原発の大事故と大量の放射能放出が生じて、通常の震災と放射能災害が複合・増幅し合う破局的災害である。

 最後に「全国の原発について、原発震災のポテンシャルが相対的に高い原子炉から順次廃炉にし、日本全体の原発震災の確立を段階的に下げていくというような道筋を真剣に考えなければならに」と結んだ。

 小文は静岡県では波紋を広げ、県当局が専門家の意見を求めた。その結果が、静岡県議会の委員会の資料に「石橋論文に関する静岡県原子力対策アドバイザーに見解」としてまとめられている。
そのなかで、例えば斑目(まだらめ)春樹氏(現在、原子力安全委員長)は「(外部電源が止まり、ディーゼル発電機が動かず、バッテリーも機能しなくなる可能性について)原発は二重三重の安全対策がなされており、安全かつ問題なく停止させることができる」「(核分裂反応を止めても炉心の温度上昇は続くことについて)万一の事故に備えてECCSを備えており、原子炉内の水が減少してもウランが溶けないようにしている」と述べている。
私の他の指摘事項、原子炉建屋とタービン建屋の揺れ方の違いが配管に及ぼす影響、爆発事故が使用済核燃料貯蔵プールに波及してジルコニウム火災などを通じて放出放射能がいっそう莫大になるおそれ、ECCSの問題、BWR(沸騰水型原子炉)では再循環ポンプがとくに問題であること等々もすべて大丈夫として、「石橋氏は原子力学会では聞いたことがない人である」と述べた。

 小佐古敏荘氏(現在、東京大学大学院教授、三月一六日付で内閣参与)も私の懸念をすべて否定し、「国内の原発は防護対策がなされているので、多量な放射能の外部放出は全く起こり得ない」「石橋論文は保険物理学会、放射線影響学会、原子力学会で取り上げられたことはない」「論文掲載にあたって学者は、専門的でない項目には慎重になるのが普通である。石橋論文は、明らかに自らの専門外の事項についても論拠なく言及している。

P130
そもそも、これほど激しい地振動を受けて「身体を張って」もちこたえた原子炉は、滑落した仲間を救って伸びた登山隊のザイルのように、二度と使ってはいけないはずなのに、規制庁である原子力安全・保安院(以下、保安院)と安全委は、いくつのの審議会をくぐらせて、現在四基が運転を再開している。
しかし、運転再開のために、安全委は改定指針の地盤に関する規定の解釈をにじ曲げ、また、存在可能性が指摘されている長大な活断層を無視するという「原発耐震偽装」をおこなった。
そして、今日の福島原発震災が発生したのである。

まさに「原発震災」だ──「根拠なき自己過信」の果てに
  石橋克彦 (神戸大学名誉教授)

P173
 政策の決定は上述したように原子力推進の仲間内だけで決められ、国民は規定の方針に合意させる対象でしかない。丁寧に説明すれば理解は得られると勝手に決め付け、多大な広告宣伝費を使いながら、上から下への合意形成が試行錯誤されている。
 こうしたことのすべてが、今回の事故の遠因であると筆者は考える。
~中略~

 最後に、故高木仁三郎氏が、遺著となった「原発事故はなぜくりかえすのか」(岩波新書)の最後に記したメッセージで本稿をくくりたい。

 原子力時代の末期症状による大事故の危険と、結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。

原子力政策は変わらなければならない
  伴 英幸 (原子力資料情報室共同代表)

P58
 しかし、現在の状況を見ると、彼らが何の反省もしていないことがわかります。
レベル7だと公表して以降は、レベル7にも規模はいろいろとあって、今回の事故はチェルノブイリよりも規模は小さいなどと言い始めています。聞いているだけでも恥ずかしくなります。
 現在も進行中なのです。チェリノブイリは収束しています。私は今回の事故が収束してくれることを心から願っていますが、収束できない可能性、チェルノブイリ事故を越える可能性もあると思います。そこをきちんと認めて対応していかなければいけないと思います。

P58
アカデミズムといいますと、清廉潔白で科学的事実に忠実なものと思われている方も多いと思いますが、実際には、アカデミズムもまた社会的存在であり、とりわけ日本の原子力にかかわるアカデミズムの分野についていえば、それは、産官学が複合した「原子力ムラ」と呼ばれる、原子力から利益を得る共同体の一構成部分となっています。
原子力を推進しながら自分たちの利益を守ろうとする共同体であり、したがって、事故は小さく見せたいという思惑も働いてしまうのです。

 メディアの問題も非常に大きいと思います。なぜ、レベル7の事故が起きているなかで、「安全だ、健康に影響はない」などという「専門家」ばかり登場させているのでしょうか。

ブラックアウトは何故起きたか
  小出裕章 (京都大学原子炉実験所)

世界 2011年 06月号

岩波書店; 月刊版 (2011/5/7)

 

世界 2011年 06月号 [雑誌]

世界 2011年 06月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/05/07
  • メディア: 雑誌




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