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相撲節会(せちえ) [言葉]

 よく知られているように、近代オリンピックのヒントとなった古代ギリシアの祭典競技は、ゼウス神に捧げる祭祀儀礼として行われていた。いわゆる神事である。
だから、全裸で男性だけの競技が行われ、観客もまた男性に限定されていた。ここで展開されていた裸体競技(ギュムナスティケー)は、スポーツであると同時に神に奉納される芸能でもあった。こういう事例をあげていけばいくらでもある。が、少なくとも前近代までは、スポーツと芸の葉渾然一体となっていて、両者の区別はほとんどなかったと言ってよい。 近代に入ってから、スポーツは急速に競争原理に傾斜していき、優勝劣敗という理念のもとに近代競技スポーツ(オリンピックやワールドカップ)としての体裁を整え、今日に至っている。
 ~中略~

たとえば、舞踊と武術は同根であったことを確認しておこう。舞踊の「舞」と武術の「武」は、もともとはまったく同義であったという(諸橋轍次「大漢和辞典」)。しかも、どちらも祭祀として行われていたという。
大相撲の原点とも考えられている相撲節会(せちえ)は宮中の年中行事の一つとして組み込まれていた。それは、天皇が主催する祭祀であり、競技であり、見世物であった。

大相撲 真の再生への提言──21世紀的世界観に立った改革を
  稲垣正浩 (日本体育大学名誉教授)

世界 2011年 06月号

岩波書店; 月刊版 (2011/5/7)
P173

世界 2011年 06月号 [雑誌]

世界 2011年 06月号 [雑誌]

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/05/07
  • メディア: 雑誌
源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

  • 作者: 川合 康
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/04/12
  • メディア: 文庫

 

  -d2a03.jpg瑠璃光寺4

 当時(住人注;源頼朝の時代、建久二年)の相撲は現在のように勝負を決める土俵がなく、勝負は相手を倒すことのみによって決まったらしい。
とくに武士の鍛錬として相 撲は、有名な「曾我物語」の冒頭にでてくる河津祐道(すけみち)のすもうのごとく、力まかせに相手をねじ伏せ、投げとばすといった荒っぽいもので、朝廷の年中行事である 相撲節会で発達した格闘競技とは異なり、戦場での組討ちに直接つながる、いわば「格闘そのもの」だったのである(新田一郎「相撲の歴史」138ページ)。

 源平合戦を経た鎌倉前期の武士社会では、戦闘様式の変化にともなって、こうして相撲が弓馬と並ぶ武芸として重視され、あらたに「弓馬・相撲の達者」という文言が、す ぐれた武士を讃える表現としてしばしば用いられるようになっていくのである(「吾妻鏡」承元二年十月二十一日条、承久三年六月十九日条など)。

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究
川合 康 (著)
講談社 (2010/4/12)
P26

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

  • 作者: 川合 康
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/04/12
  • メディア: 文庫

 


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