寡黙なる巨人 [雑学]
もう体は回復しない。神経細胞は再生しないのだから、回復を期待するのは無意味だ。それだけは、この二年の間に思い知った。
ダンテの地獄篇に「この門をくぐるもの すべての希望をすてよ」とあったが、この病気(住人注:重度の脳梗塞)でも同じである。
しかし私の中に、何か不思議な生き物が生まれつつあることに気づいたのは、いつごろからだろうか。始めのうちは異物のように蠢いているだけだったが、だんだんそいつは姿を現した。
まず初めて自分の足で一歩を踏み出したとき、まるで巨人のように不器用なそいつに気づいた。
私の右足は麻痺して動かないから、私が歩いているわけではない。それでも毎日リハビリに励んでいるのは、彼のせいだと思う。
~中略~
私はこの新しく生まれたものに賭けることにした。自分の体は回復しないが、巨人はいま形のあるものになりつつある。
彼の動きは鈍いし寡黙だ。それに時々は裏切る。この間こけたときは、右腕に大きなあざを作った。そのたび私は彼をなじる。
でも時には、私に希望を与えてくれる。
~中略~
もとの私は回復不能だが、新しい生命が体のあちこちでうまれつつあるのを私は楽しんでいる。
昔の私の半身の神経支配が死んで、新しい人が生まれる。そう思って生きよう。そうすると萎えた足が、必死に体重を支えようと頑張っているのが、いとおしいものに思えてくる。
寡黙なる巨人
多田 富雄 (著), 養老 孟司 (著)
集英社 (2010/7/16)
P145
崇福山 安楽寺3
P109
私は私の中に生まれたこの巨人と、今後一生つき合い続け、対話し、互いに育てあうほかはない。
私は自分の中の他者に、こうつぶやく。何をやっても思い通りには動かない鈍重な巨人、言葉もしゃべればいでいつも片隅に孤独にいる寡黙な巨人、さあ君と一緒に生きてゆこう。これから娑婆でどんな困難が待っているかわからない。でも、どんな運命も一緒に耐えてゆこう。私たちは一人にして二人、分割不可能な結合双生児なのだから。
そして君と一緒にこれから経験する世界は、二人にとって好奇心に満ちた冒険の世界なのだと。
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