父親と母親の違い [家族]
母親から娘への支配には、父親とは比較にならないほど根深いものがあります。
具体的になにが違うのでしょうか。
父親の支配とは、ある種の普遍性を持ったルールを背景にした支配です。男性を縛る規範は、女性に比べてとても単純です。
「金を稼いで女を獲得して子孫を残し、家族を養っていける一人前の男になれ」というもので、これは現在でも変りません。
~中略~
父親と息子の関係においても、自分が”より優れた規範の体現者”になれば、そこで勝敗は決するのです。
敗者となった父親からは、父親として威厳が失われ、もはや息子を支配することはできません。
~中略~
ところが、娘に対する母親の支配は違います。
~中略~
40歳の教科書NEXT──自分の人生を見つめなおす ドラゴン桜公式副読本『16歳の教科書』番外編
モーニング編集部 (編集), 朝日新聞社 (編集)
講談社 (2011/4/22)
P140
そのため、「女性らしさ」をしつけようとする母親は、どうしても自らの個人的な経験や感覚に頼りつつ、それこそ手取り足取り伝えていかざるをえなくなります。
そして、伝えるべき「女性らしい外見」や「女性らしい所作」の出発点が自分である以上、その内容は限りなく「自分と娘を身体的に一体化させること」に傾いていきます。もっと言うなら、身体的に一体化させることによって娘を支配しようとするのです。
~中略~
不本意なことも多かった自らの人生を、娘を通じて完成させたい。やり直すことのできない自分の人生を、娘を通じてやりなおしたい。
多くの母親は、心のどこかでそうした欲望を抱え、娘をいっそう強く支配しようとします。
身なりはもちろん、進学先や就職先、さらには彼氏選びにまで介入しようとするのは、まさに「生きなおし」願望の現われです。
~中略~
母親による支配は、ほとんどが「あなたのためを思って」という献身的な形をとってなされるため、なかなか拒絶ができないのです。
~中略~
しかも、身体的に一体化した母親を否定することは、そのまま自らの身体を引き裂くような痛みを伴います。
娘にとっての「母殺し」がいかに困難であるかかは、男性(もちろん私も含みます)には永遠に理解できないものでしょう。
じゃあ一方で、母親のほうは娘との葛藤をどう思っているかというと、意外にも能天気なことが多いんですね。
この種の問題では、「娘は苦しみ抜いているのに、母親はまったく無自覚で、呑気に暮らしている」というパターンが大半なのです。
~中略~
母親たちは、いつも「あなたのため」という錦の御旗を掲げながら、娘たちに自分の理想や願望を押し付けてきます。
そんな彼女たちに対して、娘の側が感情的に不満をぶつけてみたところで、まず理解してもらえません。
せいぜい「また娘がごちゃごちゃ言っている」とか「親の気持ちも知らないで」といったところでしょう。
それでは、いったいどうすれば、娘たちは母親の支配から抜け出すことができるのでしょうか?
母親の支配から抜け出すために、私がまず提案したいのが「物理的な距離をとる」ということです。
あえて断言しますが、母親と同居している限り、その支配から抜け出すことはできません。母親は無自覚のまま「奉仕による支配」を続け、娘は申し訳なさから母の期待に応えようとしてしまいます。
~中略~
ここまでは母親を中心に話を進めてきましたが、父親と娘はどうなのでしょう?
端的に言って、両者の関係は非常にシンプルです。極端な愛着か、徹底した嫌悪か。父親と娘は、このいずれかに傾くことが多くなります。
~中略~
父親が疎外されている家庭では、多くの場合、母親が夫に幻滅しています。
~中略~
このとき娘は、「恥ずかしい父親を選ばざるをえなかった母親」の無力さをも恥ずかしく思うようになります。そして母親ばかりか「自分が女性であること」まで嫌悪するようになる傾向にあるのです。
~中略~
ひきこもりに限らず、さまざまな家庭問題の背景にはかなりの割合で「過保護で過干渉な母親」と「仕事人間で家庭に無関心な父親」の組み合わせで見受けられます。ここに「手のかからないよい子」が加われば、もはや完璧といっていいでしょう。
斎藤環
要は、(住人注;母親が)モノを買い与えることでしか、子どもの心をつなぎとめられないという傾向が、非常に顕著となってくる。正確には、「買い与える」のではない。「買ってあげる」というところが、ミソである。
~中略~
本当は自立してもおかしくない年ごろであるにもかかわらず、まだ親に頼らなくては何もできないと思い込むことで、「だから私が~してあげなくてはいけないんだ」と
自らの行為を正当化しつつ、モノをつぎつぎと買い与えるなかで、子の信頼をつなぎとめようとするのだ。
~中略~
またこれは、子にとってかなりのところ、都合のよい状態でもある。
~中略~
子どもが自立をためらうことは、一見、親には困ったことのように見えるものの、その実、必ずしも全面的に困ると感じているわけではない節がある。
真実、社会へ出て行ってしまわれることの方が、むしろ親にとって困ることなのかもしれない。
ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊
正高 信男 (著)
中央公論新社 (2003/09)
P143
愛だけでは人格として育たぬのです。愛と、愛から出づる配慮・世話だけでは人格としては育たぬ。動物としては育つ。
つまり可愛がって面倒見るだけならば、犬も猫もやっておることです。人間と本質的に変わらぬ。
人間が他の動物と違って、人格として、万物の霊長として育つためには、愛だけではいけない。
人間である限り、いかに幼稚であっても、むしろ幼少であればあるほど純粋に、愛を要求すると同時に「敬」を欲する。敬を充たさんとする心がある。
子供は、いかにいとけなくとも、すでに三歳になれば、愛の対象、まず母の愛を欲する。可愛がられたい、愛されたいという本能的要求と同時に、敬する対象を持ちたい。畏敬するという自覚はありませんが、本能的要求です。
敬する対象を持ち、その対象から自分が認められる、励まされる、励まされたい、という要求を持っておる。
この愛と敬とが相俟って初めて人格というものが出来てゆく。その愛の対象を母に求め、敬の対象を父に求める。父のない場合には、その二つが皆、母に集まるわけであります。だから母は非常に難しいことになる。
安岡正篤
運命を開く―人間学講話
プレジデント社 (1986/11)
P69
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親に対する子供の心理ニーズは、自分に注目して褒めたり叱ったりすることだけではないでしょう。
たとえば学校の試験で悪い点数をを取ったり、教室でいじめに遭ったりして気持ちが落ち込んだときなど、親は褒めることもできなければ、叱ることもできません。
子供のほうも、そんなことは求めていない。必要なのは、「それでも自分は大丈夫なんだ」という安心感を与えてくれる存在です。
一般的には、どちらかというと父親がその役目を果たすことが多いでしょう。
強くて頼りがいのある父親が、「おまえはオレの子なんだから、勉強すれば必ず成績が上がるよ」「父さんみたいに強くなって、いじめたヤツを見返してやればいい」などと励ましてくれると、子供は気持ちの上で立ち直ることができます。
このような役割を果たす自己対象のことを、コフートは「理想化自己対象」と名付けました。
安心感を与えて立ち直らせることができるのは、本人にとって尊敬に値する存在でなければいけないからです。
自分が「自分」でいられる コフート心理学入門
和田 秀樹
(著)
青春出版社 (2015/4/16)
P80
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