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神と仏の共存と神仏分離 [日本(人)]

 私は、真言密教の日本の思想に対するもっとも大きな影響は、真言密教によって神と仏が一体となったことであると思う。
六世紀半ばに移入された仏教は従来の日本の神道とトラブルを起こし、その結果、蘇我・物部の戦いという宗教戦争が起こり、戦争は蘇我側、仏教側の完全な勝利に終わったが、神と仏との関係はその後も多生ぎくしゃくしていた。
しかし東大寺建造にあたって、応神天皇を主神として祀る宇佐八幡が宇佐から上京し、天神地祇(ちぎ)を代表して東大寺建造を祝福して以来、神と仏の新しい蜜月関係が生まれたのである。

 この蜜月時代は空海の真言密教によって決定的となる。東寺の境内にある鎮守八幡宮は平城一派の人々の怨霊の鎮魂のために空海が建てたものとされるが、そこに空海が造ったという僧形八幡神像がある。僧形八幡神像というのは宇佐八幡の主神、応神天皇が僧形になったものであり、これほど神と仏の合体を明らかに示すものはない。
~中略~

密教寺院には金銅仏などはなく、ほとんどすべて木彫仏である。日本人にとって木はもともと神を宿すものであり、仏像が木で造られることによって神と仏はまさに一体化したといってよい。そして日本人にとって神は異形の姿をしていると考えられ、異形の行基仏や密教の仏などは神に近いものと考えられたのであろう。

 神と仏はこのように空海以来、多生の屈折があるものの、仲よく共存していたが、明治維新政府は神仏分離、廃仏毀釈の政策をとることによって神と仏を分離し、仏を廃棄してしまった。
この政策の影響は今なお根強く残っていて、現在でも仏教は公教育から締め出され、一木一草の中に神仏をみるという、千年の間、日本人の心性を培った信仰は失われてしまった。

 現在、日本人の精神の空白がしきりにささやかれるが、空白を回復するには神仏分離、廃仏毀釈の政策を深く反省し、神と仏の融合を図った空海の思想を復活させねばならないであろう。

梅原猛、日本仏教をゆく
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2004/7/16)
P57

DSC_6024 (Small).JPG泉涌寺

P59
 神仏習合と言いますが、神さんと仏さんが仲良くなったのは、奈良時代の終りからです。詳しい話をすると大変に面白いんですが、役行者で始められた神仏習合の信仰が確立されたのは白山信仰によってです。
越前と加賀と飛騨の間に白山という山があります。その信仰をつくり出した泰澄という人が神仏習合に大きな役割を果たしました。
白山は雪をかぶった白い山でしょう。雪が溶けて田植えができる。稲作農民にとって、水を供給してくれる白山ほどありがたい山はない。白山信仰は、日本の稲作農民の信仰になった。白山は神の山であり、仏の山でもあるという信仰ですが、その白山の主峰の本地仏は十一面観音です。
 十一面観音は、左手に水瓶を持っている。だから水の神さまです。この水の仏の信仰によって日本の農民に仏教が定着したんです。その白山信仰を始めたのが泰澄ですが、行基は泰澄から神仏習合の思想を学んだ。
 行基のほうが泰澄より年上です。行基は、泰澄の白山信仰を受け継いで新しい神仏習合をつくりだした。それが八幡信仰です。

P61
神さんと仏さんはずっと仲よくやってきたんです。
 それをいけないと言ったのは、国学の中の、特に平田神道です。国学でも賀茂真淵や本居宣長は仏教をそんなに排斥していません。
ところが、平田篤胤という人はエキセントリックな人で、神さんと仏さんが仲よくすることに反対した。
 その平田神道が明治維新の思想的原動力になりました。
その結果、明治政府の中に水戸学者や平田神道系国学者が入りました。彼らが行ったのが廃仏毀釈、神仏分離です。
~中略~

天皇は明治以前は仏教の信者でした。天皇になれない皇子は、門跡寺院の門跡になられた。青蓮院とか、三千院とか、たくさんの門跡寺院があるでしょう。
 ところが、明治政府は天皇家から仏教を奪ってしまった。そうして、天皇家を自分たちの祖先を崇拝する新しい神道の信者とした。しかし、第二次大戦に敗れて、その国家神もマッカーサー指令によって廃止された。
 だから、今の天皇家は無神論。そんな国は世界中にないですよ。京都の泉涌寺は天皇家の祖先の墓があるところです。今の天皇はよく泉涌寺へ参られますが、しかし、自分は仏教信者だとは言えない。やはり廃仏毀釈は続いていると私は思うんです。

 もうひとつ重要なのは、仏教の道徳が学校教育から追い出されたことです。千年以上の間、日本人の心を養ってきた仏教の道徳が公教育から締め出されてしまった。教育勅語には仏教の道徳はほとんど入っていません。
~中略~

  国を愛することはいいことです。私は自分は日本人の誰よりも愛国者だと思っています。
私が日本のことを研究したのは、日本が好きだからです。けれども、明治の国家主義が日本の伝統とは思えない。あれは明治にできた新しい考え方です。
 ところが、そういう修身道徳も、戦後、マッカーサー指令によって禁止されました。そうすると道徳がなくなってしまうんですね。世界的に見て、今の日本ほど無神論の国はないと思います。~略~
 国民も廃仏毀釈で神と仏を殺してしまった。宗教もない。道徳もない。仏教は檀家制という形で残っているけれど、だからといって日本人が仏教を信じているわけではない。神道も信じてない。キリスト教の人は神を信じているかもしれませんが、おおかたの日本人は無神論だということになる。

梅原猛の授業 仏になろう
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2006/03)

 俊政(住人注;求菩提山座主延寿王院俊政(三好久弥麿))が座主拝任をして(住人注;本山聖護院より)帰国後の二年目には、廃仏毀釈となった。
慶応四年(明治元年)である。座主二〇歳、奥方美也一四歳のときで、一山は元老山伏たちの評儀が毎日のように続き、いよいよ四月一一日廃仏毀釈が決行された。
 月次記録に「講堂鰐口取除事、仏像仏器御除事」、
また諸記録に、
「上宮中宮鰐口弐面并仏像仏器経巻取除多宝塔ヱ相囲戸并〆仕候」
とある。ところが明治一二年の宝物古器物古文書取調帳には、
「維新御改革廃仏の当時紛失に付詮索中に御座候」
とあり、多くのものが盗難に会ったように記述されているが、持ち出したものも多かったのであろう。
 明治の改変といったものは、これこそ大変なものであった。座主を始め、山伏たちは還俗して、普通の人の名前に改めなければならなかった。座主は、三好久弥麿と改めた。三好を名のったのは、初代座主の道達の祖が三好を名のっていたからである。
 山伏たちは改名にあたって、自ら思い思いの名前をつけた。第一回目の届出をみると、ほとんどの人が、日本国中の国名を自分の名につけた。陸奥、長門、大和、土佐、日向などであったが、これは許可にならず、次は武士名をつけた。そして明治五年修験道禁止令を受け、一山はますます深刻な立場となった。
 したがって、これまでの山伏たちは生活に当惑した。生活の方途として、これまでの檀家に改新した神社の大麻を配布したり、売薬を業とするものなどあった。

山伏まんだら―求菩提山(くぼてさん)修験遺跡にみる
重松 敏美(著)
日本放送出版協会; 〔カラー版〕版 (1986/11)
P80

DSC_6185 (Small).JPG臼杵石仏ホキ石仏

  ただ一つの仮説を提出してみよう。まず最初の問いである。なぜに不動明王は、それほどもまでに日本において崇拝されたか。
その理由をとく鍵は、日本における修験道の発展であろう。役小角に始まるといわれる修験道は、日本固有の山岳信仰と密教的な呪法を結びつけたものであった。この修験道でもっとも崇拝された仏は、他ならぬ不動明王だったのである。歌舞伎の「勧進帳」に出てくる山伏の姿を、弁慶は「不動明王の尊容を象(かたど)り」という。
一体、このように神道が仏教と結びつくとき、なぜ、不動明王のような怒れる神の像が選ばれるのであるか。
上田正昭氏は、この理由として日本における「荒ぶる神」の崇拝をあげられる。スサノオ命以来、日本では荒ぶる神の信仰が盛んである。荒ぶる神に祈って、その力を利用しようとする考えが、仏教と結びつき、不動崇拝を生み出したのではないかといわれる。
 この上田氏の仮説は大変興味深い。私はこの仮説にもう一つの仮説を加えよう。
火に対する日本人の並々ならぬ趣向が、火の神としての不動明王を数ある仏の中から、もっとも神と習合しやすいほとけとして選び出さしたものではないか。柴燈護摩といわれる修験道の行事は、実はサイ(遮る)の神のゴマという意味であり、境の地にあって火をたいて悪魔が入って来るのをこばむサイト焚きといわれる行事が、修験道にとりいれられたのであるといわれる。
夜、炎々と燃える火のイメージ、私は日本人は特にこのような火のイメージに狂的な感動を覚えた民族ではないかと思う。この火に対する趣向が怒りの神不動に特別な愛着をもたらしたものではないか。

続 仏像―心とかたち
望月 信成 (著)
NHK出版 (1965/10)
P97


 そして、仏教は、日本の固有信仰のさまざまなかたち(とりあえずは、それらを総称して「神道」とよぶ)を、「仏教」の枠内に取り込もうとしたのであって、もともと対立的なものではなかった。
すでに八世紀には宇佐八幡(神道)が東大寺大仏建立(仏教)についての託宣をもたらしている。そして、後に東大寺が大仏建立に協力した宇佐八幡の神を勧請して鎮守(手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう))ともしている。
これを神仏混淆というなら、わが国の宗教は最初から神仏混淆であったというしかない。
極論すれば、悪名高い明治の神仏分離令(一八六八年)に至るまで、神仏はともに親しく拝まれてきたのであり、それを受け入れる柔軟な(そして寛容な)知性こそが、この国の宗教をかたちづくってきたのではないかと思う。
 われわれは神仏分離令以後の百五十年間において、行政による信仰への介入、つまり、神社合祀(一九〇六年)や神道指令(一九四五年)など、日本の宗教の本質部分を解体しようとする試みによって、次々と精神的拠りどころを奪い去られてきた。
自然を愛し、神も仏も同じように(宗派や教義にとらわれず)信じ、つねに祖先とともにあるようなおおらかな宗教風土はいまや絶滅寸前であるもといえよう。
 そんなときに「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのは、とても偶然とは思えない。
それは熊野を中心としたネットワークをもとにして、日本の宗教を見直す機会が与えられたことだと理解してよいのではなかろうか。
日本中を旅すると、この列島にはかつての宗教風土がそのまま残されているところをいまだ無数に見出すことができる。
九州の阿蘇、国東半島、出雲地方、四国の八十八ヵ所めぐり、六甲山地、奈良の長谷寺、室生寺周辺、奥三河、日光、湯殿山をはじめとする出羽三山などには、かつての信仰の跡が数多く見出される。
そこでは、外来の仏教が土着の神祇(じんぎ)信仰となだらかに一体化していった過程がしばしばみてとれる。
実際には、神道から仏教へという変化は、一方を他方が凌駕したというわけではなく、共同体の祭祀に支えられた従来の神祇信仰から私的所有を根本とする氏族社会へと移行するにしたがって、仏教に精神的支柱を求める傾向が強くなったということにすぎない。
六世紀頃から両者の融和が促進されていったわけだが、そうやって、興福寺は春日大社を、延暦寺は日吉(ひよし)(日吉(ひえ))大社を、金剛峯寺は丹生都比売神社を、東寺は伏見稲荷を鎮守としてもつようになったのである。さらに、長谷寺はその奥の院として瀧倉(たきのくら)社をもつし、室生寺は背後に鎮座する室生龍穴神社なしには存在しえなかったのである。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P26


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