栄西 [宗教]
日本は中国から仏教を移入して国づくりをしたが、平安時代の半ばに遣唐使が廃止されて以来、両国の仏教は大きく変わった。
日本では、初めは真言密教、後には浄土教が大流行したが、真言密教も浄土教も中国では唐の時代に一時流行した過去の仏教にすぎなかった。
中国においては破仏すなわち仏教の弾圧によって寺院は壊され、経典は焼かれ、裸の身一つで悟りを開くことを説く禅が唐から宋にかけて中国仏教の中心となった。このような日中仏教の相違をみて、栄西は日本の仏教を文明国中国の仏教に近づけようと思ったのであろう。
~中略~
この禅の大祖師というべき栄西に、曹洞宗の僧ばかりか臨済宗の僧すらいっこうに尊敬を払わないのはいささか忘恩的であるといわねばならない。
梅原猛、日本仏教をゆく
梅原 猛 (著)
朝日新聞社 (2004/7/16)
P143
永治元年(一一四一)、備中で生まれた栄西は、十三歳で比叡山に入山して天台宗を修め、やがて禅を修めるべく宋へ渡る。
一度目は平氏全盛期の仁安三年(一一六八)だが、この時は滞在わずか半年で禅を極めるには至らなかった。
帰国後しばらく博多に住み、今津の誓願寺で起草したのが国宝「誓願寺盂蘭盆一品経縁起」である。
二度目の渡宋は幕府草創間もない文治三年(一一八七)で、宋の天台山において虚菴禅師から臨済禅の黄竜派を学び、建久二年(一一九一)に帰国。翌年、筑前香椎に建久報恩寺(福岡市東区)を建てたのが、日本における禅宗の始まりとなった。
あなたの知らない福岡県の歴史
山本 博文 (監修)
洋泉社 (2012/10/6)
P54
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