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「甘え」今昔 [日本(人)]

P288
 すなわち甘えはまず一義的には感情である。この感情は欲求的性格をもち、その根底に本能的なものが存在する。

P292
 日本では依存的な人間関係が社会的規範の中に取り入れられているのに、欧米ではそれを締め出しているために、前者では甘えが発達し後者では発達しなかったというものである。

「甘え」の構造 [増補普及版]
土居 健郎 (著)
弘文堂; 増補普及版 (2007/5/15)

IMG_3873 (Small).JPG高松

P1
 一九七五年には「「甘え」の構造 補遺」を発表し、一九八〇年には「「甘え」再考」を書き、刊行二〇周年の一九九一年には「甘え」が本来非言語的心理であるという事実をめぐって新しい序文を書き、更に二〇〇一年には「続 「甘え」の構造」を出版して「甘え」概念の総括的考察を試みた。しかし恰度(ちょうど)その頃から私の「甘え」理論に対し表だって異論を唱える者もでなくなったのである。

 さてこのことは私の持論が一般の認めるところとなったことを意味するものなら結構な話だが、必ずしもそうとは言えないことが問題である。
 というのはこの頃から人間関係についての一般の関心が急速に失われてきたように思われるからである。「甘え」は本来特別に親しい二者関係を前提とする。それこそ相手あっての「甘え」である。例えば、親子関係、夫婦関係、師弟関係、親しい友人関係などがそれに相当する。
~中略~
しかしこのような二者関係の特異性重要性は近年急速に失われつつあるのだはないだろうか。
~中略~
今や「甘え」といえば人々は一方的な「甘やかし」かひとりよがりの「甘ったれ」のことしか考えなくなったのだ。
~中略~
しかし今やこの二語が「甘え」を代表するものになったとすれば、そのことに言及しない本書は現代人の感性にもはや訴えないということにもなりかねなねまい。

P6
しかし今や、この本が出てから三十数年を閲(けみ)した今日、事態はますます深刻さを増していることが誰の目にも明らかなのではあるまいか。
 この点は近年特に家庭をめぐる事件ないし犯罪が一段と急増し深刻になっている事実が端的に示すところであると思う。本来なら家庭こそ「甘え」の育つ場所であったはずだ。しかしその家庭が今や不安定となり、こわれやすく、多くの悲劇の現場となっている。

P55
愛情不足が問題行動の原因である、といわれることはよくあります。息子の場合、親が(父親でなく母親)子どもを抱きしめなければ愛情が不足して将来学校に行かなくなるとまでいわれました。
 しかし今日愛情不足というよりは親の側からいえば愛情過多、子どもの側から言えば、十分愛されているにもかかわらずもっと愛してほしい、親の愛を自分だけに向けないと気がすまないという意味で愛情飢餓のケースのほうが多いのではないか、と思います。 そういう子どもたちを抱きしめるとどうなるかといえばますます甘やかすことになってしまいます。

P123
子どもが甘やかされた子どもになるためには、プラトンの言い方に従えば、そのことを「善し」とする判断がなければならず、アドラーであれば、甘やかされた子どもになる目的は、各人の「創造力」によって創り出されるのであり、そのような選択や行動に先行する出来事や、外的事象は「副原因」(影響因)であっても「真の意味での原因」(決定因)ではないわけです。  この場合、親の甘やかすという働きかけが自分にとってメリットがある、と判断したとき、その働きかけを自分の目的のために使うのです。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために
岸見 一郎 (著)
KKベストセラーズ (1999/09)

P108
<甘え>の客観的指標があるわけでもない。精神科医が患者の行動に同調できず、患者に対して陰性感情をもつにいたった時、患者の中に<甘え>があるとされるのである。
 疾患の有無が精神の専門家としての了解に裏打ちされているのに対し、<甘え>の有無は一般常識人としての感情的同調に裏打ちされているといえる。精神科医にとって、疾患は治されるべきものであるのに対し、<甘え>はしつけられるべきものであり、元来疾患とは無関係である。
しかし、精神科医が<甘え>という言葉を発したとたんに、この言葉は疾患という言葉同様<精神医学化>される。
言葉の<精神医学化>とは、医師が患者の行動を精神医学的に説明する際に使用できるよう、言葉を加工することである。それにより、疾患と<甘え>は同列に配して比較できるようになってしまう。

P114
 私は精神分裂病(統合失調症)者・神経症者・嗜癖(しへき)者・自己愛性人格障害者の順に後ろのほうほど<甘え>の度合いが大きくなってゆくように感じている。

P116
 精神科医全般では、嗜癖者を治療対象と考えるかどうかが、精神科医を二分する分水嶺となっている様子である。すなわち、嗜癖サイクルの形成のおおもとである陶酔を疾患の表現ととるか、<甘え>の表現ととるかということである。
一般に、<甘え>の度合いが大きいと見なされた患者に対しては精神療法、反対に<甘え>の度合いが小さいと見なされた患者に対しては薬物療法が中心に用いられる、といえよう。

P117
 精神科医が患者に大きな<甘え>を認めたとしても、それは感情的同調による主観的判断であり、第三者にその<甘え>を説得的に表現することはできない。そして、<甘え>は治療対象ではなく、患者の自己責任において克服されるべきものだとの認識を精神家医がもったところで、この<甘え>がいまや<精神医学化>」された概念であるから、結局のところ、精神科医は<甘え>から逃れることはできず八方ふさがりとなる。
ただ、そこまで責任を負わされてはたまらないというのが、精神科医の本音である。

精神科医になる―患者を“わかる”ということ
熊木 徹夫 (著)
中央公論新社 (2004/05)

P95
 土井先生は、日本語の本では明確に論じていませんが、海外向けの論文で「甘え」をこのように定義しました。
「ほかの人の行為をあてにしたり、それに依存することのできる個人の能力および特権」
 これだけを見ても、決して「甘え」を否定していないことは明らかでしょう。
~中略~
日本ではこの「甘え」がうまくできないと人間関係がスムーズにいきません。
おかわりを要求しても起られることはないでしょうが、相手は「気づかなくてごめんなさい」と申し訳ない気持ちになるでしょう。
場合によっては、「図々しい人だな」と思われるかもしれません。
上手に甘えて、相手が自発的に好意を示してくれる行動(これがまさに「おもてなし」です)を起すのを待ったほうが、人間関係は円滑になるのです。

P97
日本人の社会には、いわば「成熟した甘え」と「。未熟な甘え」があって、適度に他人に頼り、適度にそれを受け入れられる人間が「成熟した大人」と見なされるのです。
 でも、l「良い甘え」と「悪い甘え」の線引きは難しい。そのため、日本人には「甘え過ぎてしまう病理」と「甘えられない病理」の二つがあります。

自分が「自分」でいられる コフート心理学入門
和田 秀樹 (著)
青春出版社 (2015/4/16)


土居健郎の「甘えの構造」(弘文堂)など、数々の日本人論が示唆する心理的事実は、「つながり」を感じている状態は、情動的安定を保証するということです。
「甘える」という行為は、相手との関係を全面的に受け入れたうえで、自分のある種のわがままを相手に受容してもらうことを期待しています。換言すると、つながりは、相手にとって迷惑かもしれないことをしても壊れないほど強固である、という安心感が自分にはあります。
相手とつながっているという強い深層意識的認識があれば、甘えることも容易だし、安心感もまた強くなるのです。

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P187


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