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無神国日本 [日本(人)]

梅原 近代日本文学の最高の作家の夏目漱石に「門」という作品があるでしょう。やっぱり宗教の門のところまで入って、宗教に入れない。この題名が、近代日本小説の正確を見事に表しています。
五木 それはもう、日本のヨーロッパ理解そのものがそうだと思いますね。たとえばアメリカなんかは戦後、民主主義で科学の国で唯物・物質の国だと言われていたんですけど、あそこは大統領が就任するとき、バイブルの上に手を置いて、神に向かって宣誓する国でしょう。だから神国アメリカと言ってもいいくらいに、キリスト教文化の根が深く民主主義の根本に入っている。それなのに、われわれはそれを知ってて、絶対知らないふりして認めようとしない。だからドル紙幣にイン・ゴッド・ウイ・トラスト、神の御名の下にこのお札は発行されているという、そういう国であったことを、五十何年隠蔽してきていると思うんですよ。

仏の発見
五木 寛之 (著), 梅原 猛 (著)
平凡社 (2011/3/8)
P145

DSC_6217 (Small).JPG臼杵石仏

P169
五木 どんな文化でも、その土地に根づくためには、それ以前にあった風習と折り合いをつけながら進めていきます。たとえばドイツに入ったキリスト教は、やっぱりドイツの在地信仰とどこかで重なり合っているし、イギリスに入ればケルト神話とどこか混合している。教理だけを推しつけようとするのは、ちょっと難しいかなという。ヨーロッパの風土と歴史の中で育ったキリスト教神学を、極東の島国の、長い歴史のある人びとに、そのまま教えこもうとするのは、どこか無理があるのかな、という気がしないでもありませんね。
梅原 神仏習合は、役の行者にはじまって、泰澄の白山信仰および行基の八幡信仰でだいたい定着して、空海によって完成した。真宗の宗派で、多少それに反対しましたが、日本人は仏と共に神を崇拝して、明治維新まで来たんです。
~中略~
梅原 そういうことです。いままで仏さんと神さんは仲よく住んでいた。とくに天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗もそうです。真宗は必ずしもそうjyないけど、だいたいまあ、神と仏は仲良く同居してきた。しかし、廃仏毀釈は仏を殺すばかりか、神まで殺してしまった。仏教を排斥することによって神道まで否定した。
五木 宗教そのものを、文明の中で葬り去ろうとこころみたわけですね。
梅原 そうです。仏も神も殺したと。ドストエフスキイの言うように、神殺しの文明が近代日本の文明だった。神様を統廃合して国家神道に統一した。
~中略~
そういう伝統的な仏と神を殺したのが、近代日本人で、そういうところから、道徳の荒廃も来ていると、私は思っているんですよ。教育勅語はその線で書かれているので、結局、神様は天皇陛下と日本国家だけだという。
五木 現人神ですね。
梅原 現人神です。その現人神もまたマッカーサー司令官によって、否定されてしまった。
~中略~
 そういう無神の時代に、現代の日本人は入っているんですよ。

P173
五木 人間は、どんなに時代が進歩しても、ただ雷を雷とだけ感じるんじゃなくて、何かそれに対する畏れというものを抱くのは自然のことですよね。
~中略~
梅原 だからね、どこかそういう心があるんですよ。私も子供や孫が入学のときは、北野天神さんに参った。ちょっと絵馬かけて(笑)。そしたら唯物論者の友人がね、やっぱり子供の入学祈願で来てるんですよ。私と会って、恥ずかしそうにしとる(笑)。
五木 それはおかしい。
梅原 やっぱりマルキストの心の中にも、ちゃんと神さんがあるんですね(笑)。
~中略~
梅原 やっぱりね、私は、もう神仏というか、なにか自分より大きなものを恐れる思想に、人類は帰らんと、あかんと思う。五木 畏怖の畏という字を書いて「おそれ」と読むけれども、「畏れ」という考え方が、私は非常に大事なような気がするんですね。

P195
梅原 まあ、私も若いときは、ドストエフスキイに夢中になった時期があるんですよ。ドストエフスキイというのは、やっぱりロシア正教と深く結びついている。
五木 そうです。それはあたりまえのことだから、西洋ではことさらに言わないだけです。トルストイもそうですし、アンドレ・ジッドもそうです。彼をキリスト教の宗教作家とは言いませんよね。作家というのは、どこかはじめからそういうものですから。
梅原 ドストエフスキイも、「カラマーゾフの兄弟」で、三男の有神論者アリョーシャという人物を中心にして、アリョーシャ中心の物語を書こうとしたけど書けなかった。結局「カラマーゾフの兄弟」は、イワン中心の物語になってしまった。イワンというのは、無神論者で神を信じなかったんです。神が存在しないならば罪もない。どんな犯罪でも許される、親殺しでも許される。親を殺してもよい、そのイワンの思想を、異母弟のスメルジャコフが実行に移して、イワンの父フョードルを殺す。
 カラマーゾフ兄弟は無神論の時代の親殺しを問題にした小説ですが。その後のロシアで本当に起こったことは、神もない世界の恐るべき、人間の大量虐殺だったわけです。やっぱりドストエフスキイは、神を信じない世界の恐ろしさを描いた人だと思います。

P198
五木 優れた自然科学者は、行き着くところ、何かそういうもの(住人注;神と仏というか、人間を超えた大きなもの)に突きあたると、みんな言ってますね、ただ、世界を創造した神とか、死んだあと必ず救ってくれる「仏」とか、そういう物語は、自分たちは信じることはできない。でも、科学で解明できる問題に対して、では、なぜそういうものが世の中に存在したのか、ということについて思いをいたすと、自然科学の最後の限界のところに、何かがあるということだけは感じると。
むしろ科学者のほうが、そういう不思議なもの存在にいきつくと。絶対者というか、なんと言っていいかわからない何かを、感じているみたいですね。

「科学は進み、宗教は衰える」といった前世紀的な通念が何となく古くさく感じられ、かといって、「これからは宗教復権の時代だ」などと声高に叫ぶほどの純朴さもないこれからの時代、「真に合理的である」ためには、「科学的に物を見る」ことと、「一貫した死生観を持ちながら人生を全うする」ことが両立できるような立脚点が必要となってくる。
佐々木 閑

P304
佐々木 つまり、死者を弔うという気持ち、そしてその死者をたとえばお墓に入れる。散骨も一緒ですよ。散骨だって墓に入れるのと気持ちは一緒だから。
要するに死んだ人の骨が何かの象徴として残るものであって、それを大切に扱うという気持ち。
これはみんな宗教心であって、むしろそこにお坊さんがいるかいないかは、それは宗教であるかどうかの基準にならないということでしょう。
 日本人は、そういう意味では宗教心というものを非常に強く残しているのではないかと思います。
~中略~

 だからお坊さんというものが、日本人の宗教心の中から今次第に放り出されつつある、排除されているような状態だから、日本人がお坊さんを呼ばなくなったということと、宗教心が薄くなっているとおいうことは、決して比例しないと思います。

生物学者と仏教学者 七つの対論
斎藤 成也 (著), 佐々木 閑 (著)
ウェッジ (2009/11)
P3


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