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日本教ワールド [日本(人)]

 日本では、「決議は百パーセントは人を拘束せず」、という厳然たる原則がある。
戦争直後、ヤミ米を食べずに餓死した裁判官がひとりいた。ということは、その人が例外なのであって、他の裁判官はもちろんのこと、この法律を議決した議員も、その議員 を選出した国民も、だれひとりとして、国会の議決によるこの厳然たる法律に、百パーセント拘束されていなかったことを示している。

日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン (著), Isaiah Ben-Dasan (著)
角川書店 (1971/09)
P107

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1971/09/30
  • メディア: 文庫


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臼杵石仏

P108
日本では、満場一致の決議さえ、その議決者をも完全に拘束するわけでもないし、国権の最高機関と定められた国会の法律さえ、百パーセント国民に施行されるわけで はないから、厳守すれば必ず餓死する法律ができても、別にだれも異論はとなえない。法律を守った人間はニュースになるが、破った人間はもちろん話題にものぼらない。
といって全日本が無法状態なのではない。ここに日本独特の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という断固たる不文律があるからであ る。
~中略~
 ではこの法外の法の基本は何なのであろう。面白いことに、それは日本人が使う「人間」または「人間性」という言葉の内容なのである。
~中略~ 
このどこにでも出てくるジョーカーのような、「人間」という言葉の意味する内容すなわち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まる で違憲の法律のように棄却されてしまうのである。
守れば餓死するような法律などは、「そんな人間性を無視した法律した法律を守る必要はない」と全国民が考えると、その 瞬間に違憲として棄却されるから、ないも同様になる。

P110
 日本人が無宗教だなどというのはうそで、日本人とは、日本教という宗教の信徒で、それは人間を基準とする宗教であるが故に、人間学はあるが神学はない一つの宗教 なのである。そしてこの宗教は、「人間とはかくあるべき者だ」とはっきり規定している。
つまり一つの基本的宗規が存在するのである。全ての法律、規則、規定、決議は、満場一致であろうとなかろうと、この宗規に違反していないかどうか厳密に審査されねば ならない。従って議決は常に最終的決定でなく、いわば満場一致の決議案に過ぎないのだから、日本人は、これにさして神経質にならない。

P123
川端康成氏がハワイの大学で行ったことをお忘れなく。
日本では「以心伝心」で「真理は言外」であるのだから。
従って、「はじめに言外あり、言外は言葉と共にあり、言葉は言外なりき」であり、これが日本教「ヨハネ福音書」の冒頭なのである。
くれぐれも忘れないでほしい。あなたの生きて来た世界がユークリッドの世界だと仮定したら、日本教の世界は非ユークリッドの世界である。

P125
 前章でのべた法外の法と、今のべた言外の言、この二つが日本教の根本理念である「人間性」を定義しており、一切の異邦人は、この聖域に近寄ることを許されない。
ロ ーマ軍はエルサレムの神殿の支聖所に乱入することができたが、日本教のこの支聖所には、たとえ原爆をもってしても押し入ることはできない。
また異邦人は、日本語がペラペラにしゃべれても、この支聖所をうかがい知ることはまずできない。せいぜい、言外の周囲にあってこれを守っている言葉に近づくことができ るだけである。
従って何時間議論したって対話したって無駄である。ましてやその結果「日本人は結論をはっきり言わない」などという感想をのべるなら、言う方にはじめから 、日本人と語る資格がないのだ、と言わねばならない。
 とすればわれわれ異邦人が日本教に近づく道は三つしかない。まず日本人が、一民族・一国家・一宗団であることを、他の国との比較の上で証明し、第二に、日本教を体 現している人の言行と生涯を考察し、第三に日本教徒の他宗教(この場合はキリスト教)理解の仕方の特質を探ることである。

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)

  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1971/09/30
  • メディア: 文庫



P205
 愛、親子の情、師弟の恩、仲間同士の連帯意識、感動、自己犠牲、忠誠心、誇り、絆・・・・・・・
そういったものをふわっと感じさせるだけで、なぜ世の中の大部分の人は押し黙り、納得して、大人しくされるがままになってしまうのでしょう?ずっと疑問に思っていました。
 まるで知能のスイッチが切られでもしたかのように思考停止して、そのあとはもう話になりません。
ふわっとした何かに当てられて酔っぱらったようになってしまっている人に、ちょっと酔いを醒(さ)まして冷静に話をしましょうよ、と呼びかけるだけで、相手はたいてい怒りはじめるのです。
自分の立場や、時には命が危うくなるような場面すら、酔ったままでいることを選ぶように見えます。
 そんなに快感なの? 「それ」は?
 知能のスイッチが「それ」によって切られ、思考停止すると、攻撃や抵抗をやめてしまったり、さらには自分の命を絶ってしまったりすることさえ少なくありません。
 もっと不思議なのは、その行動を「美しい」と言って、多くの人が称賛することでした。
現実に起きる出来事ばかりでなく、小説や映画やマンガや、さまざまな媒体でそれが推し進められているように見えました。ひどく奇妙に感じられたのです。そして、奇妙に感じている自分を悟られてはならない、隠さなければいけないと全身の毛が逆立つような恐ろしい思いもしました。
 ただただ「集団」というものの振舞いが知性を持った生き物のようには思えず、原理が理解できなくて不可思議なもののように感じられたし、なぜ私にはこの情況がわからないのだろうと焦るような気持ちがありました。
~中略~
誰かに言ったとしてもほぼ確実に理解されず、頭がおかしいかまたは危ないやつだと思われて、ひどい目に遭(あ)わされるに決まっていました。「それ」を理解できない者は、排除されてしまいます。こいつは人間じゃない、何か別の危険な存在だ、などと言われることになるのはわかっていたのです。
 成績が良いことはまったく救いにならず、勉強だけができてしまったりしたら、なおさら、集団から遠ざけられるのです。
 ~中略~
 観察していると、理解できないよりもむしろ、集団の中にいながら「それ」をうまく運用できない者のほうがよりキツそうでした。攻撃され、排除されていきます。
 疑問がふくらんできました。なぜ大多数の人間はオートマチックに「それ」を運用できるのか? みえてすらいないようなのに? なぜ「それ」を理解できないだけで苦しまなければならないのか?
~中略~
 どうもここは、「「それ」法則」に支配された生き物の世界であるということはわかりました。それは多分どう足掻(あが)いても、直ちに変わることことはないようでしたから。
 私は望むと望まざるとにかかわらず、この世界にすでに生まれてしまって、何十年かをこの条件ですごすことを運命づけられ、リセットも基本的には許されず、ゲームを続けなければならないのです。
 ならば、このゲームにおいて勝つこととは何なのでしょうか?
 まずは「それ」の概要と仕組みを把握する必要があるだろうと思いました。ルールを把握するのはゲーム攻略の大原則でしょう。時間がかかりましたが、ようやく私にも、こういうことなのか、と概要は理解できるようになってきました。
~中略~
 私がいちばん困ったのは、目の前の相手の思考のスイッチが切れてしまったときでした。
もうその相手は知性でやり取りできる状態ではなくなってしまいます。今のところ、そうなったらもうできるだけその相手とはかかわらないようにしています。
 私はかなり人を選ぶし気難しいと自認してしていますが(そんなことはない、と言う方もそれなりの数いてくださいますが、その方たちはほぼ確実に「それ」に酔わないタイプの人たちです)、この方法の良いところは、知性と思考の体力のある人だけが周囲に残ってくださるという点ですね。
 ゲームのルールが把握できたら、次はゴールの設定です。このゲームでは、いつタイムアップになり、終わってしまうのかはっきりせず、あらかじめわかりもしないという特徴があります。
100年続く人もいればごく短い人もいます。ただ有限の時間しかない、というところだけはみな同じなのです。どう生きても、いずれ誰もが平等に時間切れになり、ゲームオーバーとなります。
 その中で、何をどうすればクリアなのか?
 金持ちになること? 有名になること? それとも何か作品を創り上げる? ちょっと古臭い感じもするけど家名を上げるとか? モテること? よい相手と結婚? 学術的なアチーブメント? 人気者になること? 歴史に名を残す?
 どれも一見それなりに価値はありそうな気もしなくはありません。実際に多くの人がそうなるにはどうすればいいのかという答えを求めて、手当たり次第にセミナーに出てみたり本を買って買ってみたり情報商材に手を出してみたり宗教にハマったり、ですが・・・・・こうして言葉にしてみると、何だか陳腐(ちんぷ)に見えてきませんか?
~中略~
 こうした自己利益の最大化を目指すのではなく、利他的に生きればもっと幸せになるんだよという言説ももちろん、知らないわけではありません。むしろよく知っているくらいです。
ですがたいていの場合それを声高に言う人は、それこそ自己利益の最大化を目指していたり、搾取を目的とした詭弁(きべん)を弄(ろう)しているのであって、善良で利他性の高い人物であればあるほど、さんざんな目に遭うのを見ることも多く、単純に利他性だけを軸に生きろと誰かに勧めることは私には到底できませんでした。
 利他性はバランスと器用さを備えていなければ、自己を本当に幸せにするための確実な武器とはなりにくいのです。なぜなら利他性とは「それ」のために自己犠牲を強いる脳内の装置であるからです。

空気を読む脳
中野 信子 (著)
講談社 (2020/2/20)


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