評論家 [日本(人)]
わが敬愛する山本書店主の唯一の道楽は水泳である。春夏秋冬を問わず、仕事に疲れるとザンブとプールにとびこむ。
彼によると、どこのプールにも必ずプールサイダーがいるそうである。もちろんプールサイダーというのは氏の造語であって、オックスフォードの大辞典には載っていまい。
これ は、プールサイドにいて、人の泳ぎ方を実に巧みに批評する人びとのことで、その批評が余りに巧みかつ的確なので、だれでもその人のことを水泳の達人と思わざるを得な くなってくるような人物のことである。ところがこういう人物に限って、プールに突き落としてみるとたいていカナヅチであるという。だから、プールサイドにいても、絶対に自分か らプールに入ることはない。
~中略~
だが、それならばなぜ、評論家といった人びとが無視されないで、大きな「社会的活動」ができるのであろう。
私はこれらの人びとにもう一つの面があると思う。それは「知的 容姿」が端麗で、(さらに外面的容姿も端麗ならさらに良い)、「知的挙止」が繊細優美だということであろう。いわば一種のファッション・モデルなのである。
~中略~
日本における知識人とか文化人とか言われる人びとも、多くはまさにそれで、主として西欧で流行している思想を、実に巧みに自分の脳細胞にまとうから、それがまるで、生まれるときからそういう思想をもっていたかのように見えるのである。
ということは、あたかもその人が、その思想を生み、育て、かつ発表しているような錯覚を人びとに抱かすのである。ある人びとの流行の思想の「着こなし方」のうまさは、まさ に神技ともいえる。
そして流行の変転とともに、いつも実に巧みに着かえつつ、その間を、演技でつないで行くから、常にステージに立って居られるわけである。
日本人とユダヤ人
イザヤ・ベンダサン (著), Isaiah Ben-Dasan (著)
角川書店 (1971/09)
P222
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