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戦いにロマンはない [ものの見方、考え方]

 鎌倉初期は「武芸精神の高潮期」と位置づけられ、主従道徳や名をたっとぶこと、恥を知ること、不言実行、思慮のあることなどを徳目とする、鎌倉武士の精神生活が指摘 されてきたのである(河合正治「鎌倉武士団とその精神生活」)。

 しかし、このようにロマン化された源平合戦のイメージは正確なのだろうか。先に揚げた「今昔物語集」(住人注;十二世紀段階)ですら「昔の兵、かくありける」と記し、すで に過ぎ去った時代の、多分に理念化された「兵」像であることを明言している。
 とすれば、「今昔」から半世紀以上経た、地承・寿永内乱期の源平合戦についてなおさらのこと、通説的イメージを疑い、実態を問いなおすことが必要なのではないだろう か。

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究
川合 康 (著)
講談社 (2010/4/12)
P21

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

  • 作者: 川合 康
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/04/12
  • メディア: 文庫

 

-03518.jpg山荘 天水7

P29
つまり当時(住人注;一条天皇の時代(在位九八六~一〇一一)の認識では、武士は上横手雅敬(うわよこてまさたか)氏の指摘のように「一種の学業乃至は職業(職能)で あり」、「特殊な職能者称したもの」であった(上横手雅敬「平安中期の警察制度」五三一ページ)。

P112
 いずれにせよ、この段階における戦場では、このような人夫的兵士、工兵隊の存在は不可欠だったわけであり、攻撃の主力をなす騎馬隊も、こうして敵が構築した堀を埋め、逆茂木を取り除くような工兵隊が味方にあってはじめて、ほんらいの機動性・攻撃性を発揮することができたのである。
~中略~

そして彼らは直接戦闘員ではないものの、たんなる武器・兵粮の運搬要員でもなく、戦争を全体として遂行するうえできわめて重要な軍事的意義を担っていた点を強調し ておきたいと思う。

P136
 治承・寿永内乱期の路地追捕が、たんなる場あたり的な掠奪ではなく、遠征をおこなうにあたり当初から予定されていた「合法的」軍事行動だったとすると、当然この時期 の軍隊にも、兵粮の刈り取りや追捕活動を専門的におこなう補給部隊が組織されていたはずである。
~中略~
 最近、藤木久志氏は、戦場は端境期の飢えた村人たちのせつない稼ぎ場であったとして、戦国期の傭兵=出稼ぎ兵の実態を解明しているが(藤木久志「雑兵たちの戦場」)、この治承・寿永内乱期にも、まさに戦場に動員された村人たちが、軍隊の駐留地や路地地域の村人たちの資財を掠奪するという事態がつくりだされていたのである。
~中略~
 住宅の追捕や牛馬の掠奪とともに、ここに「妻子を追い取る」と見えるのは、藤木氏が指摘したとおり、戦場での人取り=奴隷がりが、軍勢の追捕活動の一環としてこの時期にも確実におこなわれていたことを示すものであろう。

 

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究 (講談社学術文庫)

  • 作者: 川合 康
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/04/12
  • メディア: 文庫

 

 

法然六三歳の時、京都東山にあった庵を一人に少年が訪ねてきた。出目を秘め通し追っ手の目を掻い潜ってきたのであろう師盛の子、後の源智(住人注;平師盛のとしてこの世に生を受けたのは、木曽義仲に敗れた平氏が都落ちを始めた頃、すなわち寿永二年(一一八三)祖父は重盛。)だった。 一三歳になっていた。
 少年は、九条兼実の弟で前年に天台座主となった慈円の許へ送られ、出家。しかし、ほどなく法然の室に帰り、勢観房源智と僧名を授けられ、修学に励むことになる。
~中略~

(住人注;昭和五四年玉桂寺の小堂で見つかった仏像の胎内にああった文書)「弟子源智、敬って三法諸尊に白(もう)して言(もう)さく。
恩の山尤(もっと)も高きは教道の恩、
徳の海尤も深きは厳訓の徳なり・・・
ここを以て三尺の阿弥陀仏を造立し、先師の恩徳に報ぜんと欲す」
この阿弥陀如来像は。源智が師法然への報恩謝徳の念を込め、一周忌供養のために造ったものだったのだ。
~中略~

 (住人注;仏像の胎内にああった文書に出てくる人名によると)それにしても、一年もたたないうちに、数万もの膨大な人々との結縁を成し遂げたことは驚愕するしかない。
 そこに連なる名を読むと、さらに驚きは増幅する。平氏、源氏の名が認められたからだ。清盛、頼朝もである。すでに没した人物の名さえあるのは、追善供養の意であったに相違ない。
 平氏の子・源智が源氏の供養?
 きっと源智の心には、怨親相食む娑婆世界の酷さと悲哀というものが、幼い時から同居していたであろう。
~中略~

 法然は九歳の時、武士の業により父親を亡くしている。
臨終の枕辺で父は、「仇討ちはやめよ。さらなる恨みを生むだけだ。出家し、我が菩提を弔うべし」と遺言。法然の求道と思想には、この出来事が大きく影響している。
 その怨親を超え、平等にもたらされるべき仏の慈悲―これこそまさに、源智自身、身をもっての願いであり、師から相承したおしえだった。

仏像探訪 第3号 平家物語ゆかりの名刹を訪ねる
エイ出版社 (2011/12/19)
P003

 

仏像探訪 第3号 平家物語ゆかりの名刹を訪ねる (エイムック 2307)

仏像探訪 第3号 平家物語ゆかりの名刹を訪ねる (エイムック 2307)

  • 出版社/メーカー: エイ出版社
  • 発売日: 2011/12/19
  • メディア: 大型本

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