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宗教のリミッター [哲学]

 どの宗教体系においても、反社会的行為へと暴走する可能性は秘めています。それは間違いありません。しかし、実践と思想と歴史によって鍛え上げられてきた制度宗教の体系は、そのようなトラップに躓(つまず)かないよう、きちんと逆方向へと引っ張る力が働くような構造をもっているのです。
 前出の、瞑想や禅においてしばしば起こる神秘的体験を単なる生理現象として切り捨てるという態度は見事なリミッターです。実際、不眠・過労・食制限などによって、生理的な負荷を増大させれば、通常では得難いイマジネーションを体験できます(オウム真理教のように薬物を使用すれば、もっと簡単に実現できますね)。
しかし、それは宗教体験の副次的産物でしかないことを知らしめる仕掛けが、鍛え上げられてきた体系にはきちんと内臓されているんです。もし、その体系を順に辿ることなく、理念のつまみ喰いをすれば、己の体験を必要以上に評価し、結果として自我肥大を起こすのも無理はないと思うのです。

「消費される宗教」や「情報としての宗教」の問題点はここにあるのではないでしょうか。それは自我を守るための道具であり、自我防衛反応としての霊性ではないか、と問いかけたいわけです。
このあたり、イスラム歴史学者のイブン・ハルドゥーンが言う、「ある程度制度宗教に精通せねば宗教が内包している毒を避けられない」という指摘は重要だということがわかります。どのような「宗教」においても、その体系をきちんと順序よくたどっていかねばうまく機能しないのではないでしょうか。
   禅では、瞑想による神秘体験が智慧の獲得だとは考えません。仏教の智慧とはあくまで、ものごとの本質をありのままに見通し、あたり前のことをあたり前として引き受ける態度のことです。
現代の霊性論では、瞑想による生理現象と仏教が説く智慧とをごっちゃにしているのをよく見かけます。

いきなりはじめる仏教生活
釈 徹宗 (著)
バジリコ (2008/4/5)
P192

いきなりはじめる仏教生活 (木星叢書)

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  • 作者: 釈 徹宗
  • 出版社/メーカー: バジリコ
  • 発売日: 2008/04/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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臼杵石仏古園石仏


タグ:釈 徹宗
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