読書 [学問]
(住人注;安岡正篤曰く)本の読み方にも二通りあって、一つは同じ読むと言っても、そうかそうかと本から終始受ける読み方です。これは読むのではなくて、読まれるのです。
書物が主体で、自分が受身になっている。こちらが書物から受けるのである、受取るのである。つまり吸収するのです。
自分が客で、書物が主。英語で言えばpassiveです。もっと上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。
しかしこれだけではまだ受身で、積極的意味に於いて自分というものの力がない。
そういう疑問に逢着して、自分で考え、自分が主になって、今まで読んだものを再び読んでみる。
今度は自分のほうが本を読むのです。
虎関禅師は、「古教照心、心照古教」と言っておるが、誠に教えられ考えさせられる、深い力のある言葉です。
自分が主体になって、自分の心が書物のほうを照らしてゆく。
岡崎 久彦 (著)
教養のすすめ
青春出版社 (2005/6/22)
P187
そして現実に戻ったとき、何が起こるか。現代の全体の姿が今までよりも鮮明に見えてくるのだ。こうしてわたしたちは、あたらしい視点を持ち、新しい仕方で現代にアプローチできるようになる。
行き詰った時の古典は、知性への特効薬だ。
「人間的な、あまりに人間的な」
超訳 ニーチェの言葉
白取 春彦 (翻訳)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/1/12)
185
[第一三段] ひとり、灯の下で書物をひろげて、昔の人を友とするのは、格別慰められるものである。
その書物は、文選の感じの深い巻々、白氏の文集、老子の言葉、荘子の諸篇などで、またわが国の学者たちの書いたものも、古い時代のものには、趣きのあるものが多い。
徒然草―現代語訳
吉田 兼好 (著), 川瀬 一馬
講談社 (1971/12)
P195
辯顕密二教論 巻上
言葉は、読む人の偏見によって、真意が隠れてしまいます。
その本当の意味は、読み手の技量に応じて現れてくるのです。
空海 人生の言葉
川辺 秀美 (著)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/12/11)
聖なる言葉一六五
「書物の好きな人間は、この世の退屈さを逃れることができるだろう。その日一日の仕事をにうんざりして、夕方を心待ちににして溜息をつくこともなく、自分に不満を抱いたり、他人に不満を抱かせるような生活を送らなくてもすむ」。
ウィリアム・オスラー (著), William Osler (著), 日野原 重明 (翻訳), 仁木 久恵 (翻訳)
医学書院; 新訂増補版 (2003/9/1)
P227
ゆえに学校は学生に知識を詰め込むよりも、学校を出てから、伸びのきく力を授ければよいのである。 さすれば学校を出てからも、各自に勉強し進歩する。
いまの学校は講義の筆記でひととおりのことを教え、それを読みさえすれば試験に及第するに差し支えなく、別に読書して勉強する必要のない組織になっている。
すでに学校で読書せぬからして、卒業後にも書物を読もうとせぬ。社会に出てから、何か講義にない新しい問題に出逢うときは、たちまち閉口して始末におえぬことができる。
修養
新渡戸 稲造 (著)
たちばな出版 (2002/07)
P275
古本は、たいてい、東京の神田の「高山書店」という店で買うことにしている。たれそれのことを知りたいと思えば、電話をかけるだけで、高山は懸命に本をさがしてくれるからだ。そのかわり、短編などの場合、本代のほうが稿料よりもうわまわることがある。
そういう話を知人にすると「商売でいえば、モトを切ったことになるな」と笑われるのだが、それではミもフタもない。考えてみればへんぺんたる私の作業よりも資料のほうがはるかに重い。
私の小説は読みすてられてそれでしまいのものだが、資料は後代にまでのこってゆく。むしろ私は短編を書いて資料を買っている、と自分で考えている。それだけに、私にとって資料は大事な宝物のようなものだ。
~中略~
海音寺潮五郎氏は、 「本をよむ楽しみにくらべれば、私にとって小説をかく楽しみなどはその半分にもあたらない」
といわれたが、このかたのばあい、それが極端で、シメ切りのせまっているときでも、資料を読みはじめると、わっとあふれるように読み続けてしまい、奥さんがときどき書斎に入ってきて、
「あなた」
としかられなければ、雑誌社にめいわくをかけてしまうという。海音寺さんはあるとき、
「私は小説を書くのが苦痛なんです。本だけよんで一生すごせる身分ならどんなによいかと思います」
といった。
~中略~
なぜ昔の資料などがおもしろいのか、といわれるが、なんでもないことだ。 そういう本を面倒を忍んで読みすすめるうちに、粛然としてそこに人生をみつけることがあるからだ。
ある男女の人生が、また人間が、いきいきと、そのきたない紙のなかからおどりでてくるのである。これは、息のつまるようなたのしみである。
その人間や人生をさまざまに創造しつつ読みすすめ、また関連した資料をさがして想像の肉づけをするうちに、まるでかれらは、私の友人や恋人のような相貌を帯びて、書斎の横にすわってくれる。もうこういうだけで、この瞬間は悲しくなるほどのよろこびをあじわう。
さらにその人間の来歴や背景などを調べたり読んだりするうちに、もはや、かれは、私にとって、現実の人間以上に現実的になる。
~略
(昭和37年4月)
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P145
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)
- 作者: 司馬 遼太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
- メディア: 文庫
文字(もんじ)を目に見、おぼえることはならざれども、聖人(せいじん)の書のほんいをよく得心(とくしん)してわが心の鏡とするを、心にて心をよむと云って真実の読書術也(なり)。 心の会得なく只(ただ)目にて文字をみ、おぼえるばかりなるをば、眼にて文字をよむと云って真実の読書にはあらず。(下巻之本)
中江藤樹 人生百訓
中江 彰 (著)
致知出版社 (2007/6/1)
P52
書物を読むことは、確かに学問である。しかし、書物を読んでも、文字の背後にある「心」まで理解しないと真の学問とはいえないのだ。
聖人の書には、おのずと心が宿っている。その心を知ることを学問というのである。
それなのに、文字面だけを目で追って、それでわかったような気になってしまうのは、単なる”一芸”にすぎない。
だから私は、”文字芸者”といったのだ。
石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
石田梅岩 (著), 城島明彦 (翻訳)
致知出版社 (2016/9/29)
P215
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