惜福の説 [倫理]
幸福不幸福というものも風の順逆と同様に、畢竟(つまり)は主観の判断によるのであるから、定体はない。
しかし先ず大概は世人の幸福とし不幸とするものも定まって一致して居るのである。
で、その幸福に遇う人及び幸福を得る人と然らざる人とを観察して見ると、その間に希微の妙消息があるようである。
第一に幸福に遇う人を観ると、多くは「惜福」の工夫のある人であって、然らざる否運の人を観ると、十の八、九までは少しも惜福の工夫のない人である。
福を惜む人が必らずしも福に遇うとは限るまいが、何様(どう)も惜福の工夫と福との間には関係の除き去るべからざるものがあるに相違ない。
惜福とは何様いうのかというと、福を使い尽くし取り尽くしてしまわぬをいうのである。
努力論
幸田 露伴 (著)
岩波書店; 改版 (2001/7/16)
P56
P64
何故に惜福者はまた福に遇い、不惜福者は漸くにして福に遇わざるに至るであろうか。
これはただ事実として吾人の世上において認むることで、その神理の鍵は吾人の掌中に所有されておらぬ。
しかし強いて試にこれを解して見れば、惜福者は人に愛され信憑されるべきものであって、不惜福者は人に憎悪され危惧されるべきものであるから、惜福者が数々福運の来訪を受け、不惜福者終に漸く福運の来訪を受けざるに至るも、自から然るべき道理である。
(明治四十三年十一月)
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