分福の説 [倫理]
一瓶の酒、半鼎の肉を頒つも頒たざるももとより些細の事である。しかしその一瓶の酒を頒ち与えられ半鼎の肉を頒ち与えられた人は、これによって非常に甘美なる感情を惹起されるのであって、その感情の衝動された結果として生ずる影響は決して些細なものでない。甚大甚深のものなのである。
~中略~
およそ人の上となりて帥いるものは、必ず分福の工夫において徹底するところあるものでなければならぬ。
~中略~
我能くひとに福を分てば人もまた我に福を与うべく、たとえ人能く我に福を与えざるまでも、人皆心私(ひそ)かに我をして福あらしめんことを禱るものである。
努力論
幸田 露伴 (著)
岩波書店; 改版 (2001/7/16)
P70
~中略~
要するに分福の工夫の欠けた人は自己の手脚をのみ頼まねばならぬ情状を有して居るといってよいから、従って他人の力によって福を得ることは少ないとせねばならぬのが、世の実際の示して居る現証である。
そもそも力は衆の力を併せた力より多い力はなく、智は人の智を使うより大なる智はないではないか。
高山大沢の飛禽走獣は、一人の手脚の力、これを得るには足らぬのである。
大事大業大功大利が如何にして限りある一人の心計身作の力で能く成し得るものであろうか。
これ故に大なる福を得んとするものは必らず能く人に福を分って、自ら独り福を専にせず、衆人に与え、而して衆人の力に依って得たる福を我が福とするのである。
分福の工夫の欠けたる人の如きはいまだ大なる福を致すには足らざるものである。
~中略~
その人いまだ発達せざる中に惜福の工夫さえあれば、その人は漸次に福を積み得るものであるが、その人漸く発達して地平線上に出ずるに及んでは、惜福の工夫のみでは大を成さぬ、必ずや分福の工夫を要するのである。
~中略~
人望の帰するところは天意これに傾く道理で、その人は必らず福運の来到を受くるに至るのである。
~中略~
東照公は惜福の工夫においては豊太閤に勝って居られたが、分福の工夫においては太閤の方が勝れて居た。
~略~
(明治四十三年十二月)
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