四季に順応して、自身を処理する [倫理]
もし植物や家畜において四季の作用することが甚大甚深であり、かつその作用に順応しまたはこれを利用することが、有利でかつ有益であることを認めたならば、人類もまた天地の外に立ち日月の照らさざるところに居るものでない以上は、
他の動物や植物と同じく四季の作用を受けて居る道理であるから、詳しく四季の我に作用する所以を考えて、これに順応しあるいはこれを利用するのが、有理の事であり有益の事であろうではないか。
自意識の旺盛なるために一切我より出ずとなして居るのは、自己の掌を以て自己の眼を掩(おお)うて居るが如き状がありはせぬか。
人類の他物に比して優秀なるは、疑いもなくその自意識の旺盛なる点にもあるが、自意識の旺盛なるのみで一切の事が了しているのではない。
努力論
幸田 露伴 (著)
岩波書店; 改版 (2001/7/16)
P129
太陽の熱は自意識の旺盛なものにも無意識のものにも同様に加被して居るのである。四季の准看は一切の物の上に平等に行われて居るのである。自意識の旺盛なるままに、自然が我に加うる所以のものが存することを忘れて居るのは、観察の智が不円満であるとせねばならぬ。
~中略~
果たして然らば、吾人は四季の吾人に対して与うるところのものに順応して吾人自身を処理するのが、至当でありかつまた至妙であるに相違ない。
是の如き道理で、吾人は春が吾人に何様いうことを為さしむるべくあるか、また夏や秋冬が何様いうことを為さしむるべくあるかという事を考察して、そしてこれに順応して、自身を処理するにある調摂を取って行きたいと考える。
(明治四十四年六月)
「どの人間の生にも春夏秋冬はある」
と、彼の師の松陰が言ったことがある。幼少で死ぬ者もそれなりに春夏秋冬があり、長寿をえて死ぬ者も同様であり、春夏秋冬があることは人生の長短とかかわりがない。
ゆえに自分が短命におわることにすこしも悔いもない、とは松陰がみずからに言いきかせた言葉だが、晋作の人生の晩秋はみじかかった。
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/04)
P303
たった一度だけわずかな雨が降ると、あまたの草地は一段と緑に燃えてしまう。
同様に、われわれの前途も明るくなり、よりよい考えが脳裏に流れ込む。
人生を祝福されたいと思うならば、われわれは常に現在に生き、草がわずかな露に濡れて、その色合いに影響を及ぼすように、自分の身に降りかかった、どんな出来事でも、それを有利な方向に活用すれば、そしてまた、これまでいろいろな機会があったのに、それをなおざりにしておきながら、いまさら時間を費ってそれを補うことが、われわれの義務を果たすことだと夢々考えないようにすればよいのだ。
すでに春は訪れているのに、われわれは冬の中でのらくらと過ごしている。
森の生活
D・ヘンリー・ソロー
(著), 佐渡谷 重信 (翻訳) (著)
講談社 (1991/3/5)
P449
そこで一日でいうなら朝です。昼も夜も新鮮な魅力を持つなんて、よほど修養しないとできません。夜深く、人静まって、独り正座して寝るに惜しいというような魅力を感じて、全身全霊を真剣に働かせるなどというのは、よほど修養しないとできない。~中略~
ところが朝だけは別だ。どんなボンクラでも新鮮溌剌とできる。朝を活かすということから人生は始まる。そういう意味からいうならば、人生の朝、青少年時代をいかに活かせるかというのが一番重要な問題です。
知命と立命―人間学講話
安岡 正篤
(著)
プレジデント社 (1991/05))
P51
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