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調略 [雑学]

 朝廷が決めた攘夷決行の日は文久三年(一八六三)五月十日。しかし、そんな攘夷開始の命令は、政治的なかけひきとどこの藩も適当に考えていた。
ところが長州は違った。ただちに実行に移し、馬関(下関)海峡を通る外国船につぎつぎと攻撃をしかけた。
そこから「長州藩を何とかしないと、日本全体が大混乱になる」と薩摩藩と会津藩は政界の主導権をにぎるため同盟し、長州藩の京都追放策をひそかにめぐらした。

 この調略にカンカンになったのが、佐賀の過激派の真木和泉守、長州の福原越後らの面々である。
~中略~
元治元年(一八六四)七月十九日、突如、彼らは大軍を率いて京都に突入してきた。しかし、御所に発砲したというので、すぐ長州藩は賊軍になる。
圧倒的な兵力の反撃を受けて、戦いは一日にして終わり、長州軍は敗退、これを蛤御門の変という。

この国のことば
半藤 一利 (著)
平凡社 (2002/04)
P215

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薩摩藩の大久保一蔵(利通)は、この時期、政局の舞台裏で、魔術師のような暗躍をし、ついにはのちに佐幕派の会津藩と手を組み、長州勢力を京都から一掃してしまうことになる。政治は感情であるという。薩摩藩の、長州藩の独走に対する強烈な嫉妬が、この間にははたらいている。

長州藩の攘夷とは、まず関門海峡を通過する外国艦船を、長州領下関側の沿岸砲台から発砲して、うち沈めることであった。
 この海峡は、一昨年ごろから外国艦船の通行量がふえている。海峡は狭く、狙撃もしやすい。
 五月十日になった。
 不幸な商船が通りかかった。米国の貿易商ホールという者の持ち船ペンブローク号(二〇〇トン)で、横浜から上海へ向かおうとし、夕刻この海峡にさしかかった。長州藩は、停船を命じ、やがて藩の軍艦の艦砲と沿岸砲をもって砲撃したから、ペンブローク号は数発の被弾をして逃げた。

世に棲む日日〈3〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/04)


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