ヤクニン [日本(人)]
クーパーはサトーに、
「幕府の役人より、はるかにいい」
と言い、サトーもこの点は前からの持説であったので、つよい同感を示した。サトーは、日本の人材は薩摩藩と長州藩にあつまっているということを、かねてオルコック公使にもいっていた。
オルコック公使ら列強の公使は幕府の役人と接触するつど、その態度の煮えきらなさと面従腹背のうそつき外交に業をにやした。
ところが、イギリス艦隊は昨年鹿児島の錦江湾において薩英戦争をやり、勝敗の点では互角であったが、結果としては講和になった。このとき鹿児島城下ではじめて薩摩藩士と接触し、その態度の歯切れのよさと、約束はかならずまもるという点において、幕府役人とくらべ、これがおなじ日本人種かと思うほどにおどろいた。
サトーは、幕府役人の立場上のつらさに同情的でなく、むしろそれを第一に無能によるものと解釈し、さらには幕府役人が肚と言葉のちがう日本の伝統的外交法のみでやってくるのに対し、薩摩人はきわめて態度が明快で、その言葉はヨーロッパ人のことばのごとく信用できる、とみた。
サトーはこんど長州人にはじめて接し、鹿児島城下でもった感想と同じ感想を持った。
世に棲む日日〈3〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/04)
P220
P223
「ヤクニン」
という日本語は、この当時、ローニン(攘夷浪士)ということばほどに国際語になっていた。
ちなみに役人というのは、徳川封建制の特殊な風土からうまれた種族で、その精神内容は西洋の官僚(ビューロクラシー
)
ともちがっている。極度に事なかれで、何事も自分の責任で決定したがらず、ばくぜんと、
「上司」
ということばをつかい、「上司の命令であるから」といって、明海に答えを回避し、あとはヤクニン特融の魚のような無表情になる。
―上司とはいったいたれか。その上司とかけあおう。
と、外国人が問いつめてゆくと、ヤクニンは言を左右にし、やがて「上司」とは責任と姓名をもった単独人ではなく、たとえば、「老中会議」といった煙のような存在で、生身の実態がないということがわかる。
~中略~
一八五三(嘉永六)年、アメリカのペリーとおなじ目的で日本にきたロシア皇帝の代理者プチャーチン提督も、長崎で日本の役人に接触した。
プチャーチンのこの日本航海記を執筆すべく官費でその随員となっていた作家ゴンチャロフは、日本のヤクニンのこの責任回避の能力のみが発達した特性に驚嘆し、悪口をかいている。
当時のヨーロッパの水準から言えば、帝政ロシアの官僚の精神は多分に日本の官僚に似ていた。そのロシア人ゴンチャロフさえ(かれは大蔵省役人の前歴をもっていた)日本のヤクニンにおどろいたのである。
さらにこの物語の筋から離れていえば、この徳川の幕藩官僚の体質は、革命早々の明治期にあまり遺伝せず、高等文官制度が軌道に乗った大正以後に濃厚にあらわれてきて、昭和期にはその遺伝体質が顕著になった。
太平洋戦争という、日本国の存亡を賭けた大戦でさえ、いったいたれが開戦のベルを押した実質的責任者なのか、よくわからない。
ペリーとプチャーチンがおどろいた驚きを、東京裁判における各国の法律家も三度目におどろかざるをえなかった。
P225
ヤクニンにもっとも絶望していたのは英国のアーネスト・サトーであり、かれは、
「幕府役人よりも、雄藩の役人の方がはるかに責任ある態度をとり、頭もいい」
として、意識的に薩長土の雄藩に接近し、結局それがいわゆる維新回天の事業を遂げたために、英国は明治政府に対して他国を圧する位置を占めることができた。
~中略~
アーネスト・サトーの対日本人接触法は、単純であった。要するに保身だけを配慮するヤクニンを避け、危機意識をもった志士的政治家を信頼しただけのことである。
個人的には、日本の現状を憂える良心と先見性に満ちた役人は各省庁に数多い。
だが、そんな人々も、自分の所掌の問題となれば、所属の省庁の権限拡大と組織増加のほうを優先する。それが、その人物の現在の評判と将来の出世を決定するからだ。
普通の人間である官僚たちに、自分の所属する組織内での可能性を放棄して、国家国民全体のことを考えよというのは、余りにも酷である。
「日本革質」
堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る
堺屋 太一 (著)
PHP研究所 (2004/12/7)
P247
堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る
- 作者: 堺屋 太一
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2004/12/07
- メディア: 単行本
近年、幕府の政治力は次第に衰えてきたとはいうものの、未だ国民を理由なく苦しめしいたげる、過酷な悪政を行ったというわけではありません。
幕府の衰えと最近の失態は、要するに諸役人に有能な人物のおらないことによるもので、将軍自身には何のあやまちもないはずであります。
書簡
啓発録
橋本 左内 (著)
講談社 (1982/7/7)
P122
江戸期にあっては大名は領国の租税徴収権のもちぬしであって、地主ではなく、地主というのは町人や百姓身分の者であった。藩官僚も自分の屋敷の敷地いがいに土地はもっておらず、さらには藩官吏が商人とむすびついて商業による利益を得るということもない。
江戸期において貧乏なのは武士で、金持といえば商人や百姓であった。長州藩でいえば吉田松陰の実家の杉家も藩の行政官の家であり、薩摩藩でいえば西郷隆盛の家も地方役人の家であったが、かれらの生家の貧窮ぶりは日本では当然なこととしてうけとられている。同時代の他のアジア人がこれをみれば、
「それだけの利権を持ちながら、杉家も西郷家もなぜ貧乏だったのか」
ということで、理解することができなかったにちがいない。
明治という日本の開化時代は、前時代のこういう体制を原型として成立した。
明治の官吏は井上馨が江藤司法卿に弾劾されたというようなほんのわずかな異例をのぞいてきわめて清潔であったし、ひるがえっていえば明治官吏の清潔さを土台にして、はじめて明治の資本主義が成立したわけであり、これをもうひとつ裏返せば、多分に国家の面倒見を必要とする近代的産業というのは、官僚の清潔さの上にしか成立しえないものだといえる。
街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P188
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