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白村江の戦いは百済への救援だった [雑学]

  白村江の戦いにいたる戦争の経過は、「日本書紀」にかなりくわしく書かれている。その記事はかなり正確なものとみてよい。
それは新羅が百済を侵略したことについての防衛戦であったが、百済の滅亡は同時に日本の半島での拠点を失ってしまうことでもあったと思う。
この頃までは朝鮮の多島海にはなお多数の倭人が居住していたと見られ、その人たちによって日本と百済の交流は続けられ、日本の飛鳥文化は百済との交流によって成長発展していったものであったといってよかった。
その滅亡は日本にとっては大きな痛手になるはずである。そのことは日本がどれほど百済の救援に力をそそいでいたかを見ればわかることで、六六一年、斉明天皇は百済救援の軍を進めるためにみずから九州に出陣している。
~中略~
日本が百済をひたすら守ろうとしたのは単に百済の独立を願うばかりでなく、そこにある古くからの倭人の植民地を守るためのものでもあったと思う。

日本文化の形成
宮本 常一 (著)
講談社 (2005/7/9)
P83

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

  • 作者: 宮本常一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/01/22
  • メディア: Kindle版



  

関門海峡 (1) (Small).JPG関門海峡

P245
 東アジアでもっとも極東にあたる日本だけが、遠洋用の大船をつくる技術の面で遅れていた。
 理由の一つは、日本が農業の適正度の高い地域であったため商品流通の必要がすくなく、さらには漁業と言っても海浜で魚介を漁(あさ)る程度でよかったこと。
要するに大船の必要がなかった。
 いまひとつは、軍事用の超大型の船は国家権力が官僚機構でもってつくりださねばつくることが困難なことである。
日本は「大化」の年号によって形式上の統一国家の体はなしたとはいえ、実体はなお部族連合国家の状態になり、北九州の部族程度の規模では軍事用の超大型船はつくれず、つくるひつようもなかったのである。
 唐の帝室は華北から興って海上には知識も関心もなかった。しかし華南(江南)ではすでに海上貿易が発達し始めていたから、華南を併合したときに航海術も造船技術もあわせ獲た。
さらに海を経ての高句麗や百済への数次にわたる遠征で水軍技術も十分積んでいたし、以上のような諸点から見て唐は対日戦に大きな利点をもっていた。

P246
 ところが朝鮮史上、いつの時代の危機にもみられる仲間げんかが、独立運動をむしばみはじめていたのである。
 もともとこの独立運動は、王族の鬼室福信がひとりでおこしたものではなく、日本と縁のふかかった僧道琛(どうちん)の援助によって可能になった。
道琛は僧の身ながら福信の副将になってよく働いたが、しかしその存在の大きさがしだいに鬼室福信に憎まれるようになった。道琛にもあるいは憎まれるような所行があったのかもしれない。朝鮮人は一般に多くの美質をもっているが、その致命的な欠陥というのは、仲間を組んでしごとをする場合に相互の協調性に欠けていることであった。
困難なときはよく協調する。しかし一陽来復すると苛烈な内輪もめをおこす。僧道琛は、あわれにも鬼室福信に殺されてしまった。
 自然、鬼室福信の独裁権が確立した。
 福信のふるまいは専横になった。それに対して愉快ではなかったのは、福信によって日本から迎えられた王子豊璋である。正しくはこの時期、かれは新王になっていた。福信のおかげで王になりはしたものの、それを恩とはおもわなかった。王はわずかな手兵をひきい福信の不意を襲い、これを殺してしまったのである。
 独立運動の闘将はみな内紛のためにたおれた。残ったのは、軍隊統率のできない新王豊璋のみであり、独立運動軍の士気はにわかにおとろえた。
 すでに日本の主力である第三次派遺軍が博多湾を発して海上にあった。かれらは百済独立運動軍の内情を知らない。
 ―すべてうまく行っている。
とおもっていたであろう。

P251
 陸上にあった日本軍の生き残りはどこでどう船を都合したのか、百済の亡民数百人を保護して日本にもどっている。このあと、百済からの亡命者がつづき、戦後三年目には一時に二千余人がきた。
さらに白鳳期といわれる芸術時代が花をひらくのも、亡命百済人たちが日本の宮廷に収容されたことをはずしては考えられない。

P258
都も寺もそれを語るべき記録もすべて百済の滅亡とともに湮滅した。口碑さえない。
 ただ石塔(住人注;百済塔)だけが、風雨にさらされている。百済の滅亡からかぞえても千三百年以上という歳月にこの石塔は耐えてきている。
~中略~
「扶余の王都はことごとく砕かれた。しかしこの石の塔だけは残った。なぜ残ったか」
 と、李夕湖先生は、塔の第一層の石面を指した。碑文が刻まれていた。
 この塔はその碑文があるために破壊をまぬがれたのである。しかも碑文は、塔の由来のためのものではなく、
「おれが百済をほろぼした」
 という意味のことを刻みつらねたもので、唐の大将軍蘇定方の戦勝記念碑なのである。
~中略~
「平済塔」
 とよばれている。百済ヲ平グという意味で、すこしくわしく呼称する場合は、「唐平百済塔」とよばれる。「唐が百済ヲ平ゲタ記念塔」という意味である。

P262
日本の水軍が白村江で壊滅的打撃をうけ、百済の独立運動が敗北したとき、敗戦の現地日本人は百済人たちを大量に日本に亡命させるべく努力をした。さらには当時の天智政権は国をあげてかれら亡国の士民を受け入れるべく国土を解放した。日本の歴史の誇るべき点がいくつかあるとすれば、この事例を第一等に推すべきかもしれない。

街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)

街道をゆく〈2〉韓のくに紀行 (1978年)

街道をゆく〈2〉韓のくに紀行 (1978年)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
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