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海民 [日本(人)]

 (住人注;筆者が山口県萩沖の見島の本浦を調べた時)この島は古く浦と地方(じかた)の二つにわかれ、それぞれ庄屋がいてこれを治め、氏神も地方は八幡宮、浦は住吉神社があり、別々の世界をつくり、地方と浦との間には通婚も少なかった。
~中略~
地方の者は間取りが田の字型で引戸のついた家に住んでいるが、浦の者は並列型の間取の家に住み、蔀戸を持っている。
~中略~
中世の宮殿や神社などには内外の障壁を蔀戸にしたものが多く、古い寺院が扉を用いているのと対照的であるが、その蔀戸が浦の家に見られる。浦の家は漁家である。
 地方と浦の家は相接して建っていても居住様式は違うのである。そして間取が並列であるというのは、船住居の型をそのまま陸へ持ってあがったのではなかろうか。 

日本文化の形成
宮本 常一 (著)
講談社 (2005/7/9)
P172 

関門海峡 (2) (Small).jpg関門海峡

P175
八幡神のなかに、御神体が海岸に漂着したとか、海底に示現したなどという伝説を持つものが少なくない。
八幡神は宇佐神宮を根源とし、のちに武士がこれを信仰するようになってから、地頭たちがそれぞれの領内の鎮守神として祀ったものがきわめて多いが、そうした中に漂着神伝説を持っているものが多いのはどうしたことであろうか。
対馬西海岸の木坂というところに木坂八幡という社があり、対馬の一の宮であった。この社はその初めは和多都美(わたつみ 住人注;IMEで「わたつみ 」入力すると「海神」と変換される)神社とよばれ海の神であったが、一三世紀の頃から木坂八幡とよばれるようになった。
~中略~
 あるいはまた宗像の神が海岸の各地に祀られているが、宗像神も海の神であった。
こういう神の古く祀られたところは海民が他から来て居住したのではないかと考えている~後略

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神功皇后は多分に「記紀」伝承上の存在で、実在は否定されている。息長氏伝承の巫女像に、後の斉明天皇の朝鮮出兵の事蹟が投影されて創出された人物ともいわれる。
 ただ「三韓征伐」への起点となる筑紫には、彼女の伝説が多い。
~中略~
「三韓征伐」伝説は、北九州の海人たちの海神信仰に由来するという。香椎など糟屋の地に神功皇后伝説神功皇后伝説が多いのは、この地に安曇(あずみ)氏支配の海人集団が多くいたからのようだ。

あなたの知らない福岡県の歴史
山本 博文 (監修)
洋泉社 (2012/10/6)
P30


P100
 近代以前、日本も中国も、そしてヨーロッパもそうだが、国家は農民や牧畜民の上に乗っかってきた。しかし、漁業民の上には乗っからなかった。日本の場合は中国から導入した律令体制で農民に対する管理―班田収授など―が確立し、その上で日本国が成立した。国家は漁業民を収奪の対象にさえしなかった。くだって鎌倉幕府は開墾農場主である武士団が律令体制の一角をつきくずして成立した政権とみるべきだが、漁業民との関係はきわめて薄い。
 言いかえれば漁業民は自分たちだけの技術社会を構成していて、百姓どもがつくる国家など何するものぞという気概をもっていたかもしれない。
たとえば日本の敬語は農村という身分社会のなかで発達し、さらにはその農村を基盤にした支配階級のなかで精巧で煩瑣(はんさ)なものになった。
しかし漁村では敬語はほとんど発達しなかった。海へ漕ぎ出して、自分の腕で魚を獲るのにだれに頭をさげる必要があるかということがあったからだろう。

P117
 しばらく、道ずれになった。二人の漁師のうちの一人は、赤い鉢巻をしていた。赤を好むのは、宗像大神を奉じていた古代の海人である安曇族いらいの伝統で、いまも漁師は、鉢巻きや下帯に赤を好んでいる。

P120
岩屋の海人は他の日本列島のいたるところにいた海人たちとおなじように、古代、構造船は知らなかった。魔よけのいれずみをし、身ひとつで海中にとびこみ、もぐって魚を突き、また買いをひろってくらしてきた。
そのようにして岩屋の者はこの岩壁にはりついた小さな漁村だけで小さな国をつくり、
 ―たれの世話になる必要もない。
 と、大いにひらきなおって自由を享受することもできたであろう。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)


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