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政治的緊張期の日本人統御 [日本(人)]

  「売国」ということばが、日本においてその政敵に対して投げられる慣用後(フレーズ)としてできあがったのは、記録の上ではおそらくこのとき(住人注;井上聞多・伊藤俊輔が開国主義に変節して帰国した)が最初にちがいない。
 井上らは、やぶれた。
 次いでこの藩の藩主と重臣たちがとった手段は、その後の日本において繰りかえしおこなわれるようになった事柄にきわめて似ていた。
藩主以下重臣たちは井上のいうことがよくわかっていながら、三十日には、
「攘夷はあくまで断行する。決戦の覚悟肝要なるべき事」
 という大布告が発せられた。
発した政治の当務者はこの大布告の内容をもはや信じてはいない。しかしこれを出さねば、井上帰国によっておこった藩内の疑惑と動揺と沸騰がしずまらないのである。
国際環境よりもむしろ国内環境の整備の方が、日本人統御にとって必要であった。

このことはその七十七年年後、世界を相手の大戦争をはじめたときのそれとそっくりの状況であった。
これが政治的緊張期の日本人集団の自然律のようなものであるとすれば、今後もおこるであろう。

世に棲む日日〈3〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/04)
P181

唐戸 (6) (Small).JPG唐戸市場

新装版 世に棲む日日 (3) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (3) (文春文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/04/10
  • メディア: 文庫

一九六七年一〇月には第一次羽田闘争がありました。僕はその時にテレビを観ていて、ほんとうに足が震える思いがしたのです。佐世保と羽田が三派系全学連の華やかな政治的デビューだったわけですけれど、どちらも舞台は「港」なわけです。
佐世保にはエンタープライズ、アメリカの空母が来るというので、若者たちが追い払いに行く。羽田は佐藤栄作がベトナムの米軍をいわば激励するために出かけるところだった。そんな真似は許さない、と。これどう考えても「攘夷」です。
 学生活動化と言ったって、ほんとうにわずかな数なんですよ。むこうは空母ですから、二〇〇〇、三〇〇〇の学生が行って、追い返せるわけがない。「品川沖に黒船が来た!」と言って鎧着て、槍かついで行くようなものです。そして、学生の扮装はヘルメットにゲバ棒。それと旗なんです。
~中略~
その後、「内ゲバ」の時代になると、「鉄パイプ」という凶器が出てきますけれど、最初の反米闘争はあえてヘナヘナな木材が武器に選ばれた。
武具としての有効性がきわめて低いものがあえて選ばれたということは、ゲバ棒というのは記号だったということです。「蟷螂(とうろう)の斧」的ふるまいというのを、記号的に表象するとあれになる。上陸してくる米軍戦車を竹槍も以って防ぐという「果たされなかった本土決戦」の記号的再演なわけです。
 そして、旗。党派ごとに巨大な赤旗、黒旗を掲げていましたけれど、あれは紛れもなく「旗指物」ですね。~中略~
 佐世保、羽田闘争のとき、日本の学生たちは「黒船」を攘(はら)うために兜をかぶって、竹槍と旗指物掲げて出かけたんです。
~中略~
 安保闘争も反基地闘争もベトナム反戦闘争も、さきの戦争で死んでいった青年たちに対する「供養」だったと僕は思っています。供養が果たせたかのかどうか、それはわからない。
多分果たせなかったんでしょう。 でも、日本中の何十万と言う若者たちが、その数年間、供養の儀礼に参加したことはたしかです。
そして、「ベトナム反戦」という当面の政治課題がなくなったところで、何をしていいかわからなくなった。新左翼の連中がその行った先は、宗教、ニューエイジ、ブドウ、有機農業、エコロジー、だいたいそっち方面でしたね。「大地と触れ合いたい」とか、「日本の文化の神髄に出会いたい」とか、「霊的深みに達したい」とか、だいたいそっち方面に行ってしまった。
でも、そういう選択がだったという理由が今になるとよくわかります。僕自身そうだったから。

最終講義 生き延びるための七講
内田 樹 (著)
文藝春秋 (2015/6/10)
P296



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