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米国という国 [国際社会]

  「真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送った<ハル・ノート>と同じような通牒を受け取った場合、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえも米国に対して矛をとって起ち上がったであろう」というのは、後に東京裁判で被告人全員を無罪としたインドのパール判事の意見書に表わされて有名になったが、これは現代史家のアルバート・ノックの論評から引用されたものだった。
 この一文が示すとおり、ハル・ノートはこれまで頑なに避戦の姿勢を貫いてきた人たちを「開戦已むなし」と決心させてしまうことになる。昭和天皇もその例外ではあらせられない。

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
竹田 恒泰 (著)
小学館 (2005/12)
P92

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P130
「マンハッタン計画」はもともと、米国がナチスドイツを降伏させる目的でスタートした計画である。ドイツが降伏してしまった今となっては、その振り上げた拳を下す場所を見失っていた。
連合国の勝利は時間の問題と考えられており、ソ連も戦勝国となることが明確であった。米国は原子爆弾を使用した上で戦争に勝つことで、ソ連に対して有利な位置関係に立てると計算したのだ。

 開発チームの科学者達は「原爆の実験を見せつけるだけで効果があり、実際に投下して死傷者を出すべきでない」と主張した。
だが、ジェームズ・バーンズ国務長官は6月1日、日本に原爆投下する旨をトルーマン大統領に報告、7月初旬に大統領はこれを承認した。
米国政府はこの決定を英国とカナダ政府に通達して両政府の同意を得た。つまり、アメリカは、ポツダム宣言を発表する前に、日本に対して原爆を使用することを決定していたのだ。

P132
 原爆投下の翌日の8月11日、日本政府は中立国のスイスを通じて、米国政府に対し「米国の新型爆弾による攻撃に対する抗議文」を発したことは、今となってはあまり知られていない。
この抗議文には次のようなことが書かれていた。

 米国は再三にわたり、毒ガスその他の非人道的戦争方法を不法とすべきで、相手国がこれを使用しない限り、その国にこれらの兵器を使用しない旨を声明している。しかし、それにもかかわらず、このたび米国が使用した原子爆弾は、その性能の無差別かつ残虐性において、毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕するものである。
従来のいかなる兵器にも比較できない無差別性残虐性を有するこの爆弾を使用するのは人類文化に対する新たな罪悪である。帝国政府は、自らの名において、また全人類および文明の名において米国政府を糾弾するとともに、即時このような非人道兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求する―と。

 アメリカが日本軍仏印進駐を人道上許されないと言ったのはアメリカ得意のダブルスタンダードでした。
 日本の仏印進駐のたった一ヵ月後の八月末には、イギリスとソ連は示し合せ、石油を確保しようとイランに侵攻しました。アメリカからソ連への軍需物質輸送ルートを確保する目的もありました。
驚愕したイラン国王はルーズベルト大統領にこの侵攻を中止させるよう嘆願しましたが、ルーズベルトはこれを冷たく断りました。

日本人の誇り
藤原 正彦 (著)
文藝春秋 (2011/4/19)
P198





 アメリカに行くたび思うのだが、この国の人々はどうしてこんなに節制がないのだろうか。たとえば肥満。米国の衛生当局は、この国を滅ぼす病気はがんと肥満だと見ている。
がんはまだしも、肥満の方に国民が危機感を持っているとは思えない。
 なにしろ、摂取する食べ物の量が半端じゃないのである。たとえばウォールマートに買い物に行く、ピンクや黄緑のど派手なアイシングがかかったカップケーキなど、私からすれば食べることを想像しただけで頭痛がしてくるようなオーバーカロリーの食品がずらりと並んでいる。
 いくつかの商品を選んでレジまで来たら、誰もかれも、冷凍食品や野菜や肉やお菓子やバケツのような牛乳やジュースをカートに小山のように積み上げている。
こんなにたくさん、いったい誰が食べるのよ。「もったいない」「足るを知る」精神の日本を見習っていただきたい。
~中略~
この国の景気は一般国民の食欲とカードによる借金で支えられているに違いない。「豊かな国」も、一皮むけばかなり危うい。

気になる科学 (調べて、悩んで、考える)
元村有希子 (著)
毎日新聞社 (2012/12/21)
P270

 

 

気になる科学 (中経の文庫)

気になる科学 (中経の文庫)

  • 作者: 元村有希子
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2016/06/14
  • メディア: 文庫

P171
 実はアメリカは、本能的に国際法を理解できない国なのである。  そもそも、アメリカ合衆国建国の父と言われるピルグリム・ファーザーズとは、宗教的価値観が支配する中世から離脱しようとするヨーロッパで居場所がなくなり、新大陸に自由な信仰を求めてたどり着いた放浪者なのである。しばしばアメリカは宗教原理主義の国だと評されるが、「建国の父たち」からして、反近代の集団なのである。
 一六二〇年、彼らが新大陸と呼んだいまのアメリカ合衆国東海岸に漂着した際、現地人(インディアン)が食料や着物を差し出し、助けてくれた。彼らは、主(God)に感謝した。「この者たちを差し向けてくれるように豫定(よてい)してくれたこと」に。当然、人間だと思っていない現地人に感謝などしない。
 それどころか、次々と土地や食料を奪い、騙し、殺し、女を犯して、最後は西海岸にたどり着く。この西へ向かう行動を「明白な天命(マニフェスト・ディスティニー)と自称した。彼らにとっては、主によって与えられた聖なる試練なのである。やられた側には、単なる殺戮と侵略なのだが。

P172
 A・ハミルトンの「ザ・フェデラリスト」では曖昧にぼかされていたが、各州には連邦からの離脱が権利として容認されていた。資本主義経済を進める北部の洲は連邦離脱件の議論を忌避したが、奴隷制を維持する南部は抵抗した。奴隷制をめぐる対決は、A・リンカーンが大統領に就任して頂点に達した。
 連邦離脱を明言する南部諸州に対し、リンカーンは奴隷制維持を餌に翻意(ほんい)するよう工作する。これに南西部諸州は従ったが、南東部は無視し、アメリカ連合国の建国を宣言するのだ。
一八六一年、三方からの包囲に追い詰められたアメリカ連合国は、サムター要塞に奇襲をかけ、ここに南北戦争(Civil War)が始まるのである。
~中略~
 主の名の下に、人民の人民による、人民のための政治を行うことこそが、生き残った者の使命である。
 民主主義の定義として紹介されることも多いリンカーンの演説は、宗教演説であり、戦没者慰霊演説なのである。ただし、北部の戦死者のためだけの慰霊であって、日本人のように戦いが終われば敵も味方も関係なくというわけではない。
 リンカーンは当初、奴隷制度の是非を名目の一つとしたが、中立国である大英帝国の歓心を買うためのプロパガンダとして利用するようになった。北部は、アメリカ連合国の存在そのものを認めなかった。Civil War とはあくまで内戦であり、南部は謀反人にすぎない。
 そしていつの間にか、奴隷制を維持する悪魔として喧伝された。黒人を家畜のように財産として尊重した南部に対し、北部は「アメリカは白人だけの国であるべきだ」と追放しようとしただけの違いである。
 リンカーンの行為は完全に偽善である。しかし、アメリカ人は自らが騙したプロパガンダに自己陶酔する悪癖がある。また、悪魔相手の戦いに妥協はないので、陶酔に拍車がかかって狂気に至る。

P175
アメリカ合衆国(北部)は、アメリカ連合国(南部)を消滅させた。
 その後、過酷な復讐裁判を行い、教育により「奴隷制度などという悪魔のような制度を維持していた南部」という洗脳を徹底し、二度と連邦政府に逆らえないように叩きのめした。
~中略~
 現在、世界中の人々が想像するような統一国家としてのアメリカが誕生するのは、リンカーンによってである。アメリカはワシントンではなく、リンカーンによって建国された国なのである。
しかし、連邦離脱権の存在を認められない爾後(じご)の政権は、ワシントンのときから統一国家であったとの歴史歪曲を必要とするのだ。
 南北戦争は国家連合的結合にすぎなかったアメリカ合衆国が、国民国家的要素を保持した契機である。

P178
 ところで、北軍ことアメリカ合衆国が行ったことを、どこかで日本は体験しなかっただろうか。
 相手の国家体制の完全破壊、復讐裁判による悪魔化、そして歴史教育の徹底により二度と刃向えないほど牙を抜く。  ダグラス・マッカーサーが日本で行ったことと、まったく同じである。
 やっているほうは同じなのだから、同じことをするのである。 開戦後も占領後も、日本人は南北戦争に表れたアメリカ合衆国の本質を知らなすぎるのだ。

日本人だけが知らない「本当の世界史」
倉山 満 (著)
PHP研究所 (2016/4/3)


P23
さらにゆき、(住人注;ロサンゼルス空港から)市街の中心部に近づいたころ、印象が一変した。
 ソウルの街にまぎれこんだのかとおもった。
 大通りの両側の店舗という店舗の看板にハングル文字がはんらんしているのである。看板だけでなく、ガラス窓に書かれた文字も、歩道上に置かれたベンチの背もたれの広告までがハングル文字だった。
「いつからこうなりました」
「ほんの十数年前から」
 と、私どもを乗せてくれているマーガレット・鳴海が教えてくれた。~中略~
「それまでは、ユダヤ人の店舗街だったんです。あっというまに、韓国人の街になりました」
 十数年前、韓国人が大量に(三、四十万)アメリカに受け入れられたのは、ベトナム戦争のとき、韓国が同盟国として出兵したことと関係があるらしい。
 この新大陸の移民史では、かれらがその本国からやってきたときはつねに飲まず食わずだった。たいていは農村や都市で労働をし、そこからたたきあげた。
 が、この韓国移民たちだけは画期的に異なっている。ほぼ店舗をひろげるだけの資金をもってやってきたのである。ユダヤ人に交渉してその店を買いとり、さらに他の同胞たちがつぎつぎに買いとって、ついに街ぐるみの規模でユダヤ人と入れかわってしまった。
 そのスピードは速かった。ロスに住むマーガレットの記憶では、ついこのあいだまで、この韓国街は道路の両側四キロにすぎなかった。
「ところが、きょう車で走ってみて、もう六キロになっちゃっている」
(とほうもない国だ)
 驚かされてしまったのは韓国のパワーについてではない。これをその胃袋におさめて平然としているカルフォルニアという”国”の活力についてであった。

P27
 アメリカ(住人注;文明)の場合、アングロ・サクソンが最初にここにきて社会の規範をつくったことは大きい。
もし最初にスペイン人がきていれば(もっとも最初に来ることはできたが)こんにちのアメリカはなかったろう。
 さらにういうと、ユダヤ人がいなければアメリカの資本主義は別なものになったろうし。あるいは第二次大戦後、ドイツの医学者が来ることがなけれればアメリカ医学は進歩のかたちをかえていたろう。
それ以上に黒人の存在が大きい。かれらの金属楽器への愛着と固有のリズム感覚がなければ、こんにちのアメリカ音楽の様相はちがったものになったはずである。

P33
人類の歴史で、ある時期までのアメリカほど労働力が露骨に市場の商品になった国はすくない。
 カリフォルニアの土地には、すでに地つきの”商品”がいて、流入してきた二十五万個の”商品”から自分たちの既得権を自衛せざるをえなかった。
かれらは、まず差別からはじめた。”商品”である人間を仮に人種にみたて”商品”であることから外そうという社会心理的作業だった。オクラホマからきた流民を、
「オーキー」
 と、蔑称した。「怒りの葡萄」のジョード一家はその「汚ねえ畜生野郎」(大久保康雄訳・新潮文庫)の仲間だった。
 地元にもとからいた”商品”たちは、とびこんできたオーキーに対して残虐になり、団体をつくり、コン棒や催涙ガス、小銃で武装した。
 もっともそういうオーキーより以前に、この州に早くからとくべつ安い”商品”がきていた。 まず十九世紀半ば以後の中国人だった。大陸横断鉄道の敷設のときに低廉(ていれん)に使われ、鉄道が完成すると全員解雇された。かれらは農場にやとわれ、チンクスと蔑称された。
その”商品”のけたはずれの安さが、白人の”商品”を安値でおさえつける結果になり、憎まれた。
そのあとにきたのが日本人という、より安い”商品”だった。ジャップといわれたかれらは第二次大戦の終了まで深刻な抑圧をうけつづけ、さらにはかれらが”商品”から農場主や事業家に転換するようになると―つまり競争者になると―同業者から憎悪された。
 日米戦争がおこると、ジャップたちは白人の鬱憤晴らしの対象になった、日系人たちは収容所に入れられ、その農場や事業はただ同然で白人に買いとられた。まことにこの文明は、筋肉的で乱暴で、単純かつ苛烈である。

P35
 スタインベックは、父はその一部を相続した。母はアイルランド系の小学教師だった。
 アメリカ社会は、開拓地に家と耕地をつくってよそ者を警戒し、集落ができると集落ぐるみよそ者から自衛した。それがこの社会の基礎だ、というかれのアメリカ把握は、(住人注、当地)サリナスでやしなわれたのである。
 かれの少年のころ、父であるドイツ系も母であるアイルランド系も、肩身がせまかった。
すくなくとも白人としての筋目である「WASP(ワスプ)」の仲間には入れてもらっていなかった。
「アイルランド系がきらわれ者の役目を引き受けるまでは、ドイツ系が自衛のため寄りそっていたことを考えるとよい。ポーランド系がきてアイルランド系が”アメリカ人”となり、イタリア系がきてスラブ系がそうなったことを」「アメリカとアメリカ人」大前正臣訳)
 スタインベックは、さらにいう。そこへ日系がやってくることによって、中国系がようやく敵でなくなった。その日系もインド人、フィリピン人、メキシコ人が侵入してきてくれたおかげで―一般の警戒心がそのほうにむかったために―やっと敵でなくなったという。
アメリカというのはそんなものだ、といいたいらしい。

P160
アメリカという社会は、そのときどきの”正義”が異様に光芒を放つ社会で”正義”を核に集団ヒステリーがおこる。
一九五〇年代、下院に「非米委員会」が設置されたことを法的なよりどころにして、マッカーシーという名の上院議員が、角界を”赤狩り”してしまわって旋風をまきおこした。
いまの禁煙・嫌煙の運動は、むろんマッカーシズムよりもはるかに平和だが、似ていなくもない。

P213
 アメリカにきておどろいたことのひとつは、機能を失った都市を、平然と廃品同然にしていることだった。
 フィラデルフィア市を見てそうおもった。
 日本でいえば、大阪を廃品にするようなものである。
~中略~
(都市の使いすてというのが、あるのか)
 とおもうほどのショックをうけたのは、ワシントンからニューヨークにもどる途中、列車の窓からフィラデルフィアの鉄鋼製構造物の巨大な廃墟群をみたときだった。
~中略~
 国土のせまい日本ならば、せめて鉄柱や橋梁ぐらいは片づけて、地面をきれいにしておくとか、他に土地利用を考えたりするだろうが、ここでは雨ざらしにされたままである。
 そういう、いわば豪儀なことができるほど国土がひろいということもあるだろう。しかし資本というものの性格のきつさが、日本とくらべものにならないということもある。
この社会では資本はその論理でのみ考え、うごき、他の感情をもたない。労働者も労働を商品としてのみ考え、その論理でうごく。論理が捨てたのである。凄味がある。
~中略~
 日本の場合、しばしば資本は人間の顔をしている。たとえば石炭の時代がおわって、常磐炭田が無力化したとき、従業員を食べさせるために、会社ぐるみレジャー産業に転換した。
 平(たいら)にゆけば、採炭現場にいた人がウエーターになり、それらの家族の娘や孫が、フラダンスを踊っている。
 ともかくも、資本という概念も内容も、アメリカの場合、日本とはちがうものらしい。

P217
 フィラデルフィア市は、日本史年表でいえば、明治初年までは、ニューヨークを越える都市だった。
 その後も金融の中心であるニューヨークに対し、重工業の中心としてあるいは大きな商業の中心として栄えつづけた。
~中略~
 第一次世界大戦ではここは世界の造船所だったし、アメリカを走る機関車のほとんどはこの街で誕生した。そのほか、繊維、食肉加工、製紙、印刷など、十九世紀から二十世紀のある時期までのアメリカ生活をささえるほとんどの工業製品はこの街でできた。しかも河港として最良の港をそなえていて、商品は四方に運ばれた。
 それが、いま過去の街になっている。
「十九世紀的な工業はすべて儲からない時代になった。だからやめる」
 という露骨さがアメリカ経済の伝統的な”単純さ”であるとすれば、その象徴が、すでに鉄工業の墓地になったフィラデルフィア市ではあるまいか。

アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)

 

 

話を戻します。アメリカは手つかずの自然と原住民を収奪して国家の基礎を築き、ただ同然の豊かなエネルギー源を発見したことによって、今日の石油基盤の覇権国家になりました。別に国民たちの例外的な能力や努力のみによったのではなく、いくつかの歴史的偶然の連なりによって、今あるような国になった。 世界の表面はいくつかの偶然によって変わるものです。けれども、アメリカ人たちは、自分たちの成功の理由を誰の支援も受けずに刻苦勉励した事実に求めました。その国民的幻想である「セルフメイドマン」という特殊アメリカ的なロールモデルが今やグローバルスタンダードとなり、全世界に強要されている。 日本にはやはり日本固有の風土があり、日本固有のあるべき人物像があると思うんです。自然に親しみ、その恩恵を豊かに享受できることを感謝し、自然や他者たちによって生かされていることをデフォルトにするよな人間の方が、この風土、この社会にはなじみがいいと僕は思っています。 でも、それを捨てて、できあいの「グローバル人材」なる鋳型に自分たちをはめ込もうとしている。これがいかに愚かしいことかということを、僕は言葉を尽くして言っているいるのです。

最終講義 生き延びるための七講
内田 樹 (著)
文藝春秋 (2015/6/10)
P341


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