自然科学と宗教 [ものの見方、考え方]
つまり、自分の心を使って、自分の心を見る、それ以外に方法はなかったのである。~中略~
おそらくこれからは、精神集中という、きわめてアナログな方法で仏教が推し進めてきた「心の構造解明」を脳科学の先端手法がバックアップする時代が来る。一五〇〇年間停滞していた仏教が、脳科学との連携によって再び動き出すのである。
物質と精神、その両面を、科学と仏教の連携プレーで読み解き、その結果を、最終的には我々自身の人生の拠り所とする、そういう総合的な視点が実現する時代が到来するかもしれないのである。
佐々木 閑
生物学者と仏教学者 七つの対論
斎藤 成也 (著), 佐々木 閑 (著)
ウェッジ (2009/11)
P47
P163
釈迦は、時間にはじまりがあるか、宇宙の外側はどうなっているのか、人間は死んだらどこへ行くのか、などと尋ねられても、返事をしなかったそうである。
この釈迦の沈黙は、彼の死の数百年後に登場した大乗仏教の維摩の沈黙にも継承されている。
~中略~
ここでは、少なくとも仏教という宗教と科学は重なっているようである。
この、解明できない現象、すなわち語り得ぬものに対しては沈黙すべきだという自然科学の態度は、20世紀前半に活躍した哲学者ルートヴィッヒ・ヴィントゲンシュタインも「論理哲学論考」の最後のところで述べている。
哲学も自然科学も論理土台上でしか議論することができないが、その外側に、論理でつかまえることができない広大な領域があることを認めるという態度が必要なのである。
斎藤 成也
P172
われわれ人間が駆使できる論理体系を用いて、とことんまで自然科学現象を解明しようというのが、自然科学のやり方である。そこには常に限界がある。
その限界に到達したとき、自然科学者はぐっと踏みとどまり、沈黙を守る。安易に創造神を想像したり、それに頼ったりしない。そこが大部分の宗教者とは異なる点だろう。
結論として言えば、私の意見では、自然科学は宗教とはほとんど重ならないのである。
少しでも重なるところがあるとしたら、宗教というレッテルを貼られたものが実は宗教ではない、立派な自然科学であるのか、あるいは自然科学というレッテルを貼られた活動が、実は疑似科学だったということになるだろう。
斎藤 成也
P188
そういった人たち(住人注;全く役に立ちそうもない、単に知的好奇心の対象にしかならないような問題に人生を賭ける、純粋な探求者としての科学者)は、日常の雑務や、生活のための仕事を軽視し、自分が選んだ研究に没頭する。
それは世間の経済活動とは無縁な、「我が道を行く」生き方だから、社会からは何の報酬ももらえない。
したがって彼らは、原則的には、「何も生きてゆく術を持たない状態で、自己の目的を目指して日々努力を続ける存在」ということになる。
そしてそういう生き方が、仏教の修行者と同一線上にあることは明らかである。
ここに、実生活の面における、仏教と科学の共通性が現れてくるのである。
~中略~
世間からの布施が、科学者の生活を支え、科学という活動を維持していうのである。
佐々木 閑
二〇一一年十月中旬に開かれた日本地震学会の特別シンポジウムは、自己批判の嵐だった。
「こんな考え方もある、という話がいつの間にか科学的事実になっていた」「研究費をもらうために、防災に役立つと強調してきた」。そんな反省の弁が聞かれた。
一方で、「地球活動のダイナミズムを知ることが研究の本質であり、社会に貢献しようなんていう考えがおかしい」という意見もあったという。
~中略~
地震学者たちは、自らの知的好奇心を満たすだけでなく、社会貢献も大切と考えてきた。すばらしいことだ。世間は彼らに期待し、その意向を受けた政府はかなりの税金を研究費として配分してきた。誰もが幸せになれる、はずだった。
だが、現在の地震学が持つあいまいさ、不確かさが、そのプロセスの中でいつしか忘れられていった。
気になる科学 (調べて、悩んで、考える)
元村有希子 (著)
毎日新聞社 (2012/12/21)
P223
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