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宗教と規律 [宗教]

宗教というのは、「人を特定の生き方に導く活動」である。これは、絶対者の存在を認める、認めないにかかわらず、およそ宗教と言われるものすべてに共通する特性だ。ユダヤ教にはユダヤ教の生き方、イスラム教にはイスラム教独自の生き方というものがある。
個々の宗教は、その宗教独自の生き方というものを定めていて、内部メンバーにはそれを守ることを強要し、さらにはそれを外部の人たちにも勧めようとする。それが「教えを守り、教えを広める」ということの意味だ。
したがって、宗教には、「その宗教が持つ独自の生き方で生きるための指針」というものが必ず存在する。どんな宗教にも、「このようにせよ」「このようにしてはいけない」という、生活上の規範というものが存在するのである。
それは、明文化されることなく、なんとなくメンバーの間の了解事項として伝えられていることもあるし、体系的にまとめられ、あいまいさのない厳密な規範集として伝持されていることもある。 いずれにしろ、宗教には、その宗教独自の、「定められた生活規範」がある。
佐々木 閑

生物学者と仏教学者 七つの対論
斎藤 成也 (著), 佐々木 閑 (著)
ウェッジ (2009/11)
P144

生物学者と仏教学者 七つの対論 (ウェッジ選書)

生物学者と仏教学者 七つの対論 (ウェッジ選書)

  • 出版社/メーカー: ウェッジ
  • 発売日: 2009/11/01
  • メディア: 単行本

 

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P146
絶対者を認める宗教の規律には、多かれ少なかれ、こういう一見奇妙な禁則が含まれている。それは、「信仰を試す」という作業のための必須事項だからである。
 では、そのように信者が「したいことを我慢する」ことには、どのような見返りがあるのかと言うと、それは言うまでもなく、死後の幸福である。
我慢によって、信仰の強さを神に認めてもらうことで、死んだ後、最後の幸福の審判において神から「合格」の判定をもらい、天国での永遠の幸福を享受する、それが目的である。
したがって、信者にとって、こういった神との約束は、世俗的な道徳や法律よりも、はるかに強い意味を持つ。なにしろ、永遠の幸福を獲得するか取り逃がすか、という問題である。
他のいかなる約束事よりも優先されることは当然だ。絶対者を認める宗教における、神との約束事は、他のいかなる規範より優先され、時には命と引き替えに守り通すことさえ要求されるものである。
佐々木 閑

 

生物学者と仏教学者 七つの対論 (ウェッジ選書)

生物学者と仏教学者 七つの対論 (ウェッジ選書)

  • 出版社/メーカー: ウェッジ
  • 発売日: 2009/11/01
  • メディア: 単行本

 

 

 

 宗教が関係した大きな事件などが発生すると、
「彼らは、妄信的に”教祖様”や”教え”を崇拝するだけで、自らが考え、自分の意志で行動することが出来なくなってしまっていた」
 というようなコメントがさまざまなメディアで繰り返し流れる。それは、宗教を仕事にする僕にとって、とても注意深く考えるべきテーマであるけれど、「自分」というものを過信しすぎて、いわば「自分教」の教祖兼信者のような状態になってしまうことも、宗教に対して妄信的なことと同じぐらい、危険なことだと思うのだ。
そして、そういう状態にある人が、もしかしたら増えてきているのかもしれない、と感じることがある。それを周囲が煽っているような雰囲気さえある。「自分」は時に厄介で、恐ろしい。
~中略~
 しかし、その「自己決定」や本当の意味での「自由」の難しさをもっと真剣に考える時期がきているように感じるのだ。僕はそこに宗教の可能性を見出したい。

ボクは坊さん。
白川密成 (著)
ミシマ社 (2010/1/28)
P148

ボクは坊さん。

ボクは坊さん。

  • 作者: 白川密成
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2010/01/28
  • メディア: 単行本

 宗教なき道徳というものはない。宗教なき道徳などというものは道徳じゃない。
道徳という時は宗教がその中にある。道徳なき宗教なんてものも、ありゃしない。宗教という時には、道徳はその中に入っておる。
 

安岡正篤
  運命を開く―人間学講話
 プレジデント社 (1986/11)
P108

[新装版]運命を開く―人間学講話 [新装版]人間学講話

[新装版]運命を開く―人間学講話 [新装版]人間学講話

  • 作者: 安岡正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2015/05/13
  • メディア: Kindle版

「宗教」
 という言葉は、明治の新造語である。
 同じことばは、それ以前に仏教語のなかに存在したが、意味はちがう。ともかくも西洋語の対訳として、たとえば哲学、科学、社会、歴史などといったことばと同様、一つの概念をあらわすために造語された。
~中略~
 人間が、まだ村落程度の小集団にとじこめられている未開段階では、魔術的な原始宗教だけで社会の維持は十分だった。
 青銅器や鉄器のおかげで農業生産力があがるとともに、集団内部や他の集団とのたたかいが激しくなり、小は大に併呑(へいどん)され社会がおおきくなった。
それらを統御する一定の思想体系が必要になったのである。大宗教という、人間を一定の秩序によって―悪いことばでいえば、飼いならすことがなかったら―人間は相互のたたかいのためにすりへってしまったにちがいない。
 古代中国でも、同様の必要がおこった。紀元前一三六年の漢の武帝による儒教の国境化こそが、広大な社会を飼いならそうとするはじまりだったと考えていい。以後、考という血族秩序の倫理と、年長者や貴人に対する重厚な礼が、ひとびとを重く拘束した。この神のない宗教は二千年つづき、中国人そのものをつくりあげた。
 ヨーロッパにおけるキリスト教の国教化は、ローマ帝国の紀元三七八年にはじまっているのだが、これも中国における儒教の国教化と似たような事情としてとられなくはない。

アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P206


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