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道を行ひ楽しむ可し [学問]

 二九 道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生抔(など)に、少しも関係せぬもの也。
事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動かす人も有れども、人は道を行ふものゆゑ、道を踏むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。
故に只管(ひたす)ら道を行ひ道を楽しみ、若し艱難に逢ふて之れを凌がんとならば、弥弥(いよいよ)道を行ひ楽しむ可し。
予壮年より艱難と云ふ艱難に罹りしゆゑ、今はどんな事に出会ふとも、動揺は致すまじ、夫れだけは仕合せ也。

西郷隆盛「南洲翁遺訓」―ビキナーズ日本の思想
西郷 隆盛 (著), 猪飼 隆明 (翻訳)
角川学芸出版 (2007/04)
P127

西郷隆盛「南洲翁遺訓」―ビキナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

西郷隆盛「南洲翁遺訓」―ビキナーズ日本の思想 (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2007/04/01
  • メディア: 文庫

 

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高松

 

二〇 子曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。


~中略~


先生がいわれた。
「 ものごとを理解する人は、これを愛好する人にかなわない。愛好する人は、楽しんで一体となっている人にかなわない 」
雍也篇

*伊藤仁斎は「 道を知るものは、義理明白で議論はきくべく、人は皆たっとぶけれども、これを好むものが、終身衰えず、いよいよ進み、いよいよ熟するのに及ばない。
これを好むものは人皆信ずるけれども、楽しむものが道とひとつになって、まったく区別できなくなるまで至っているのに及ばない。
道はひとつであるが、行うところ生熟・深浅がある。孔子のこのことばは、生より熟に至り、浅きより深きに至ることを望んでいるのである 」といったが、
これはもっとも本旨を得ている。
学問は愛知であり、対象と一体となることによって最高の境地に達するという、孔子の学問論の根本がここに述べられている。


                  論語

           孔子 (著), 貝塚 茂樹

                       中央公論新社 (1973/07)

                       P165

論語 (中公文庫)

論語 (中公文庫)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 1973/07/10
  • メディア: 文庫

 


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