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死ぬべき時期にきちんと死なせてやるのが家族の愛情 [家族]

いのちの火が消えかかっている状態での胃瘻は、回復させることも、生活の質の改善も期待できません。のみならず、身体がいらないといっている状況下で、無理に押し込むわけですから、かなりの苦痛と負担を強いることになります。
~中略~
 胃瘻が実施される理由としては、医療者側の、できることはすべてしなければならないという使命感、また家族側の、しないと餓死させることになる、見殺しには出来ないという罪の意識があると思われます。

大往生したけりゃ医療とかかわるな
中村 仁一 (著)
幻冬舎 (2012/1/28)
P67

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P80
 フランスでは「老人医療の基本は、本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、医師の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です」といわれているそうです。(枯れるように死にたい」田中奈保美著、新潮社)。
 残される人間が、自分たちの辛さの軽減のため、あるいは自己満足のために死にゆく人間に余計な負担を強い、無用な苦痛を味あわせてはなりません。医療をそんなふうに利用してはいかんのです。
 辛くても「死ぬべき時期」にきちんと死なせてやるのが、”家族の愛情”というものでしょう。


 超高齢社会における死は予期できるゆっくり死、ひとは徐々に弱っていき、足腰が立たなくなって寝たきりになり、やがて食べられなくなって飢餓状態になり、水も飲めなくなって脱水状態になり、やがて呼吸困難になって下顎呼吸が始まり、文字どおり息を引き取ります。
末期になると脳から麻薬物質のエンドルフィンが出て、モルヒネと同じ作用をするそうです。だから苦しくないのだとか。これが老衰の場合の大往生です。だからその自然死の過程に、医療はよけいな介入をしないほうがよいのです。死期が近くなれば食べられなくなるのは当然。そこに無理して胃ろうをつくる必要はありません。やがて飲めなくなるのも自然な過程。脱水症状が起きるからといって無理な点滴をすることもありません。
下顎呼吸が始まると、傍(はた)からはつらそうに思えますが、安らかな死には下顎呼吸さえなくて、いつのまにか息を引き取ったか分からないぐらいに平穏な死を迎える、ということ。だから死ぬのに医者はいらない、医者が必要なのは死んだあとに死亡診断書を書くときだけ、と言い放つ医者もいます。

おひとりさまの最期
上野千鶴子 (著)
朝日新聞出版 (2015/11/6)
P37



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