何を見るにしても、ある時間と手つづきが要る [見仏]
それにひきかえ、最後に夢殿へ行った時のことはよく覚えている。東大寺観音院の上司さんと、佐々木茂索さんがいっしょだった。お二人ともなくなられて久しいから、十五、六年は経つだろう。
度々拝んだ仏さまなので何の気なしに厨子の前に立ったが、扉が開かれたとたん、私は思わず泣き出してしまった。
こんなことを書くのはまことに羞しい話で、同行の方Tたちに対しても失礼に当るが、何としても涙が止まらない。涙はやがて嗚咽(おえつ)に変って、私は当惑した。お二人もびっくりされたに違いないが、本人はもっとびっくりした。あれはいったい何だったのだろう。何のための涙か。今そのことについて考えてみたいと思うのだが、巧く言えそうにない。
単に美しいとか、神秘的とか、崇高だなどといってみてもはじまるまい。感涙に咽(むせ)んだのは事実だが、そんな言葉で片づけたくはない。何かとてつもない力に打ちのめされ、縛りつけられて、身動きができなかったという感じである。
依然として、巧く言えないことに変りはないが、「仏を見る」とはそういう心身の状態をいうのではなかろうか。
仏でなくても、何を見るにしても、ある時間と手つづきが要る。
白洲 正子 白洲 正子 (著),広津 和郎 (著),岡倉 天心 (著), 亀井 勝一郎 (著), 和辻 哲郎 (著)
青草書房 (2007/06)
P13
ふもとのお宮に詣でただけでもまんぞくさせてあげてください。気づかないうちは、ふもとのお宮さまも石清水八幡宮なのです。
本人が気づいたときが、もう一度石清水八幡宮に参詣するタイミングなのです。
プロカウンセラーの聞く技術
東山 紘久 (著)
創元社 (2000/09)
P192
三二五 長上を敬い、嫉むな。諸々の師に見えるのに適当な時を知り、法に関する話を聞くのに正しい時機を知れ。みごとに説かれたことを謹んで聞け。
ブッダのことば―スッタニパータ
中村 元 (翻訳)
岩波書店 (1958/01)
P69
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