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殉教 [宗教]

そういった宗教の信者は、絶対者との約束を遵守することにより、永遠の幸福を手に入れることができると信じているから、その果報は世界最強である。
死後に得られる永遠の幸福以上に貴重なものなどなにもない。それにくらべれば、現在の命が失われるくらい、大した問題ではない。
佐々木 閑

生物学者と仏教学者 七つの対論
斎藤 成也 (著), 佐々木 閑 (著)
ウェッジ (2009/11)
P152

IMG_0031 (Small).JPG大正屋椎葉山荘

したがって、彼らは平気で、あるいは嬉々として命を捨てる。自爆テロによって罪もない多くの人々が巻き添えになったとしても、それはあくまで道徳的、あるいは法律的な悪であり、俗世の問題だ。
いくら重大な俗世の悪を犯したとしても、それが、絶対者との契約遵守という、この世で最上の善に繋がる行為であるなら正当化される。
つまり、自己の宗教を守るという行為は、法律や道徳の善悪をはるかに超えた、「絶対の善」なのである。
 世俗の価値観を越えた、絶対者との繋がりに基づく「最高善」の実現、それが殉教という行為を生む。それなら、絶対者のいない釈迦の仏教ではどうなるかというと、命を捧げるべき存在がないのだから、殉教という概念は生まれない。
~中略~

 釈迦の仏教で求められるのは、あくまで、「修行による自己鍛錬」であって、「超越存在との契約の遵守」ではない。したがって、殉教という行為が成り立たない宗教なのである。
もし仮に、仏教徒が自爆テロを行ったとしたら、その者に対する評価は、単に「他人に危害を加えて自殺した者」であり、他人に危害を加えたという点で、「犯罪者」ということになる。ただそれだけのことなのである。
佐々木 閑

 
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