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世論民主主義の国 [日本(人)]

 日本の組織では、それぞれの部門担当者の意向を無視した全体調整は、ほとんど不可能に近い。日本の全体を動かすのはトップの意向ではなく、共通の情報環境が生む「空気」、つまり支配的な集団が作り出す雰囲気である。
その意味においては、日本は古くから「世論民主主義」の国であった。
「三脱三創」

世の風潮、その場の「空気」が重視される日本では、マスコミもこれらに対して従順である。マスコミ関係者自身が世の風潮に染まっている上、営業政策上もそれが安全有利と考える習慣があるからだ。
 何しろ日本のマスコミは「不偏不党」を標榜しているのだから、その時々の風潮、つまり最も声高に語られている見解を最大限に繰り返すほかはないのである。
「日本人への警告」

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る
堺屋 太一 (著)
PHP研究所 (2004/12/7)
P212

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る

堺屋太一の見方 時代の先行き、社会の仕組み、人間の動きを語る

  • 作者: 堺屋 太一
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2004/12/07
  • メディア: 単行本

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白井 ここで、日本社会全体が持っている共同主観性というのが露わになっているのではないでしょうか。とにかくアベノミクスは成功してもらわないと困る。
だから本当は成功してなくても、成功していることにしてしまおうという目には見えない大きな力が働いていて、メディアの報道姿勢を規定しているところがある。おそらくこれは首相官邸が圧力をかけているというようなこと以上に、むしろ自主的にやってしまっているような気がします。

日本劣化論
笠井 潔 (著), 白井 聡 (著)
筑摩書房 (2014/7/9)
P055

日本劣化論 (ちくま新書)

日本劣化論 (ちくま新書)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2014/07/09
  • メディア: 新書

 一つ明らかなことは、集団が個人の上に、個人が集団の上に作用し返すよりも強い作用を及ぼす時には、下降、堕落が生じることである。なんとなれば、その場合は、その上に一切がかかるところの個人の偉大さ、精神的および倫理的価値性が必然に侵害せられるからである。
〔シュヴァイツァー〕

知命と立命―人間学講話
安岡 正篤 (著)
プレジデント社 (1991/05))
P158

人間学講話第6集 知命と立命 (安岡正篤人間学講話)

人間学講話第6集 知命と立命 (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 正篤, 安岡
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 1991/05/27
  • メディア: 単行本

P4
現代で最も大きな権力を握っているのは「大衆」かもしれない。この点、西部邁氏の「大衆への反逆」は示唆に富む面白い著作だが、「大衆=帝王」にうっかり反逆したら、たちまち抹殺されてしまうであろう。
だが、これは大衆が愚かだということではない。本書にあるように「嗜欲喜怒の情は、賢愚皆同じ」であり、一人ひとりを見れば、大衆こそ賢者なのかも知れない。
しかし、いかなる賢者も権力をもてばおかしくなり「三年でバカになる」という諺もある。さらにこまったことに、「大衆」という権力は常に責任を負わないですむ。
 そして、責任を負わないですむということは、自制心の喪失になり、これが最もよく現れるのが群集心理である。
~中略~
その大衆が権力を握り、「大衆=帝王」となったらどうなるか。それは人類史上最大の暴君かも知れず、これは現代が抱えている最もむずかしい問題かもしれぬ。
 権力の周辺には必ず「阿諛追従(あゆついしょう)の徒(と)が集まる。これが、本書に出てくる「六邪」である。失脚した政治家、経営者、高級管理職などを見ると、必ず「六邪」という「取りまき」がおり、そのため「十思・九徳」を失い、「兼聴」でなく「偏信」となり、「終わりを全うできない十カ条」をそのまま行っている。
こういう点では、人間も社会も、まことに昔と変わらないものだと思わざるを得ない。「六邪」は権力を握れば必ず出現するのだから、「大衆=帝王」が出現すれば、「マスコミ」という名の「六邪」が出現しても不思議ではない。
 そして「六邪」の言葉は常に耳に楽しく、潜在的願望をくすぐり、それに耳を傾けていれば破滅だとわかっていても、ついついそれだけに耳を傾け、「偏信」となり「兼聴」を失う。そして失脚する。

P25
民主主義とは「民」が「主」の時代であり、オルティガ・イ・ガセットに従えば、大衆が権力をもつ時代である。こうなると「主」がもつ問題点を「民=大衆」がもつということになる。
それは各人が自覚せずに、実に強力な一種の権力をもつ結果となる。そして自覚なき権力がもっとも恐ろしい。もっとも「主権を行使できるのは四年に一度だけ」、いわば選挙のときだけだという人がいるかも知れない。だが、四年ごとに「国権の最高機関」のある人を罷免し、ある人を任命するというのは大変な権限であり、こういう強権を自由に行使し得た君主は必ずしも多くはないし、それぞれの機関でこれだけに権限を行使している人も決して多くはない。

P27
「民=大衆」が「主」である社会は、民がそれぞれ自らの「脛を割きて腹に啖わすが如し」といった現象を呈する。
そうなると、一国が破産し破滅することがわかっているのに、煬帝(ようだい)のような浪費をする。これは、敵が自分の中にいるような一種の自殺行為だから、何かを倒すことでは解決できない。いわば、国民全部が「明君」になるよう自らを正す意外にないわけだが、しかし、直言して諌める者もない。
言論はすべて商品化するから、もしいればこれを黙殺するか、遠ざけるか、沈黙さすかすればよい。だがそうなると、やがて自分が斃れる。

帝王学―「貞観政要」の読み方
山本 七平 (著)
日本経済新聞社 (2001/3/1)

帝王学―「貞観政要」の読み方

帝王学―「貞観政要」の読み方

  • 作者: 山本 七平
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版
  • 発売日: 2020/05/09
  • メディア: 単行本

「書経」大誓(たいせい)(泰誓(たいせい))篇に「天は民が見るように見、民が聞くように聞く」(天の視(み)るとこ我が民の視るに自(したが)う。天の聴くこと我が民の聴くに自う)とあり、「孟子」(萬章上篇)にも引用されている。
つまり、天の心は人の心、人の心は天の心なのだ。このことは、古今を通じて共通する一つの真理である。

石田梅岩『都鄙問答』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ14)
石田梅岩 (著), 城島明彦 (翻訳)
致知出版社 (2016/9/29)
P172


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