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国家意識の喪失 [日本(人)]

  官僚は何をよりどころにすればよいのだろうか。
 わたしは、それは国家意識だと考える。そしてこの国家意識の喪失が、今日の官僚の信頼性の喪失につながっているのではないだろうか。
官僚エリートは、必ずしも、大衆とともにある必要はない。

この国家意識が失われたとき、官僚は大衆から浮き上がった、セクショナル・インタレストの権化となり、大衆は、わが身のことしか考えないミーイズムの中に身を沈める。
現代日本で、まさにこのことが生じているとまで言わないが、危険な兆候が見られることは間違いないのではなかろうか。 なぜなら、国家意識を限りなく希薄化することに腐心したのが戦後日本の教育であり、文化であり、デモクラシーであった。
そして、エリート官僚たちはまさに、その戦後の教育、文化の秀才なのである。

現代民主主義の病理―戦後日本をどう見るか
佐伯 啓思 (著)
日本放送出版協会 (1997/01)
P114

DSC_9708 (Small).JPG平山温泉 湯の蔵

P234
 民主主義が、「公共的事項」に対して大多数のものが参与するという政治の空間を回復するためには、したがって、何よりもまずは、個人の主観を超えた共有価値が存在することを認めなければならない。
個々人は、この共有価値にコミットし、またこの共有価値から行動の指針を受け取ることになる。 イギリスの政治哲学者ラズは、このような共有された価値体系を「共有文化」あるいは「公共文化」と呼び、この「公共文化」に対する人々の敬意とそれを維持しようとする精神こそが自由や民主主義を支えることを述べ、個人主義的な自由観や民主主義観に反対しているが、わたしには、これは当然の主張に思われる。

共有価値が宗教的なものなのか、民族的なものなのか、それとももっと静かでゆったりと流れる生活習慣のようなものなのか、これはまた別の議論であろう。
しかし、ある種の価値の共有によって定義される、広い意味でのコミュニティや自生的秩序を見失ったところでは、民主主義は私的エゴによって食い荒らされ衰退するか、あるいは「人民の意志」を盾にした「全体意思」に転換する危険をもつことに注意しなければならないのだ。


タグ:佐伯 啓思
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