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ジャーナリズムは偏向から逃れられない [ものの見方、考え方]

  現代のような複雑な世界で、ジャーナリズムや科学が、客観的でバランスのとれた、中立的な報道や命題を提出できるという考え方が、ある意味では傲慢と言わねばならない。
主観の偏向から可能なかぎり自由であろうとすることは必要なことでもあるし、むしろ当然のことなのだが、そのことと、そのような偏向から自由になりうると考えることの間には大きな相違がある。
良心的であればこのような偏向から自由になりうると考えることが、その良心とは裏腹な傲慢を帰結しかねないのである。 それはジャーナリズムや科学の役割と可能性を過大評価することになるからである。
それに対して、このような偏向からまず逃れられないという考えは、むしろ、ジャーナリズムや科学を本質的にいかがわしいものとみなすことであり、わたしには、この方がはるかに健全な態度に見えるのだ。

現代民主主義の病理―戦後日本をどう見るか
佐伯 啓思 (著)
日本放送出版協会 (1997/01)
P144

現代民主主義の病理 戦後日本をどう見るか (NHKブックス)

現代民主主義の病理 戦後日本をどう見るか (NHKブックス)

  • 作者: 佐伯 啓思
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 1997/01/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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 その点、日本の新聞に「客観報道」という”神話”が息づいていることは不思議でならない。日本の新聞は言葉遣いや文法がきっちり決まっており、まるで同一人物が書いているかのような記事ばかりだ。
自分の名前を出して記事を書く主筆や編集委員、論説委員など一部を除いて、記者が導き出した判断を前面に押し出す記事はほとんど掲載されない。
 公正な報道を実現するために、異なる立場の識者のコメントを両論併記するのは重要だ。
だが、無理やりバランスを取ろうとする必要はない。取材を重ねたうえで右、左、どちらかの結論に至ったのであれば、記者の署名入りで堂々と記事を書けばいい。
いくら新聞が「客観報道」を追求したところで、究極的には報道とは主観の産物でしかないのだ。

「本当のこと」を伝えない日本の新聞
マーティン・ファクラー (著)
双葉社 (2012/7/4)
P116

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

  • 作者: マーティン・ファクラー
  • 出版社/メーカー: 双葉社
  • 発売日: 2012/07/04
  • メディア: 新書





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