才は道具である [日本(人)]
要するに日本人は、
「儒教」
をさえ、自分の文明をつくるためのスキ・クワ同然の道具としてあつかってきたような気配があり、オランダ学もそうであった。これによって医学と兵学を中心とした西洋技術をとり入れる道具とした。
ついでながら技術は技術として孤立したものではなく、技術を成立させているその背景や土壌つまりヨーロッパ人の思想、思考法、社会と生活の習慣ぐるみのものとして存在しているはずなのに、日本人の場合は技術のみをむりやりにひきはがしてとり入れようとし、人間までがオランダ人にはならない。
このふしぎなとり入れかたを自分で正当化しようとした言葉が、たとえば王朝時代に菅原道真がいった和魂漢才という言葉であり、明治の開化期和魂洋才ということであろう。
「才」
とは、日本にあってはあくまでも右の意味での道具であった。
花神〈上〉
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)
P405
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