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自帰依 法帰依 [宗教]

 アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、―誰でも学ぼうと望む人々は―。」

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経
中村 元 (翻訳)
岩波書店 (1980/6/16)
P64

IMG_0013 (Small).JPG文殊仙寺

P229
 ゴ―タマ・ブッダは、以下の文から見て明らかなように、自分が教団の指導者であるということをみずから否定している。たよるべきものは、めいめいの自己であり、それはまた普遍的な法に合致すべきものである。
「親鸞は弟子一人ももたず」という告白が、歴史的人物としてのゴータマ・ブッタの右の教えと何ら直接の連絡はないにもかかわらず、論理的には何かつながるものがある。

我々は釈尊と同じ可能性をもっている。~中略~
 歴史的人物としてのゴータマ・ブッダであれ、真理の象徴としての釈尊であれ、それは拝んで有難がる存在なのではなく、我々がいずれ追いつき、並んで歩むことになる仲間に過ぎないと、禅は主張したいのだ。
 キリスト教など、ほかの宗教からすれば、おそらくこれは考えられない事態だろう。

禅的生活
玄侑 宗久 (著)
筑摩書房 (2003/12/9)
P097


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