平等で個を尊重すれば子は育つのか [教育]
「先生は生徒より偉い」とか「親は子より偉い」という当然ことは、今では「人みな平等」に真向から衝突してしまいます。
「学校で勉強をもっと厳しいものにする」というのは当然です。
上海の中学を出た後、親の都合で日本の高校に入った中国人の少年は「上海で毎晩十二時までかかるほど宿題が沢山出た。日本は少なすぎて心配なくらい」と言っています。(SANKEI EXPRESS、二〇一〇年十二月8日)。
~中略~
子どもを傷つけてはいけない、というのが社会のコンセンサスとなって厳しいしつけも厳しい勉強もできなくなっているのです。この子供中心主義こそが、悪評高くたった数年で終わりとなった「ゆとり教育」の生みの親でもありました。
また社会や国家につくすという美徳は、GHQが教育勅語を廃止し公より個を尊重する教育基本法を作成すると同時に消滅の運命を定められたと言っていいでしょう。
公を否定し個を称揚することはGHQが産み、そしてそれを継承した日教組が育てたものですが、これを変えようとする者はGHQの方針になぜか未だに忠誠を尽くしているほぼ全てのマスコミにより、直ちに軍国主義者のレッテルをい貼られます。
日本人の誇り
藤原 正彦 (著)
文藝春秋 (2011/4/19)
P24
P242
日本に昔からある「長幼の序」や「孝」を幼いうちから教えこまないと、どうにもなりません。
自殺にまでつながる陰湿ないじめなども、「朋友の信」や「卑怯」を年端もいかぬうちから叩き込まない限り、いくら先生が「みんな仲良く」と訴え、生徒や親との連絡を緊密にしようともなくなりません。
ところが、長い間、教師も、父兄も誤って、子供は内容のないもの、子供は弱いもの、幼稚なものと考えて、これを甘やかし、放任することが善いことである、子供らしさとか、無邪気とかいうことを浅薄に考えて、「自由主義教育」などの美名の下に、子供を放りっぱなしにしがちでありました。
明治時代は、まだそれほどでなかったが、大正以来、第一次世界大戦以後、そういう風潮が盛んになって、日本の少年をすっかり駄々っ児にしてしまった。甘えっ児にしてしまった。戦後、それが特にはなはだしくなりました。
植物でも、動物でも、人間でも同じことですが、鍛錬統治しないで立派に成長することは絶対にない。甘やかしたら、すべてだめです。
安岡正篤
運命を開く―人間学講話
プレジデント社 (1986/11)
P172
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P194
高塚(住人注;日本精神衛生学会理事長であり、臨床心理士として活躍されている高塚雄介)氏によれば、二〇世紀後半、日本が近代社会として自信を確立するために、もっとも力を入れて教育してきたのが、この「自立」した人間を育てるということでした。
家庭のしつけでも学校教育でも「自立」した生き方が大切だとされましたが、それまでの日本人の生き方は個としての存在よりも、集団の一員としての存在の方が重要だと思われていたのです。
主体的に判断し行動する「自立」した生き方は、民主主義社会を実現し二一世紀を生きるために必要であるとしても、そこには「落とし穴」が潜んでおり、それが「ひきこもり」という現象をもたらしているというのです。
その落とし穴とは、自己決定に必要な葛藤処理能力、つまり自律能力を育てないままに、知識や技術を詰め込む「早期教育」を行ってきたことです。
もともと心の中には矛盾した考えや欲望があり、どれを選ぶかの際に葛藤が生じますが、それを乗り越え取捨選択する力が「葛藤処理能力」です。それが「自立能力」つまりは「生きる能力」で、様々な体験と学習を重ねることにより次第に形成されていくものです。
これまでの日本の教育は、自立能力の形成という点にほとんど留意してきませんでした。
知識の獲得に基づく学力だけを重視する教育環境で育てられた子どもは、自立能力が育っていない傾向が強くなります。
「大人たちは何でも自分で考えさせ、判断をさせれば自然に「自立」出来るようになるものであると考えがちですが、そんなに単純なものではありません。小さい子どもというのは、初めて直面する出来事はどんなことであれ、とまどいや不安を感じます・・・・。そうした質問や疑問、不安の一つ一つにきちんと答えながら、解消してあげることが、大人には求められています。そうでないと子どもたちはずっと不安を抱えながら生活をしていくことになります」(高塚氏)。
子供たちは、疑問を解くあるいは判断基準を求めています。ところが最近の親や教師の中には、そういう疑問の一つ一つに答えるのはよくない、と考える者が少なくないのです。答えると子どもの依存性を高めてしまうと思うらしく、返す言葉はいつも「自分で考えなさい」「自分でよいと思ったらそれで良い」となり、知識優先の教育環境を重視する人ほど、その傾向が強くなります。
判断基準を与えられぬまま判断をしなければならない子どもは、漫画やアニメーションの主人公に自分をなぞらえたりします。小学生のときはそれでいいかもしれませんが、中学になると事情は変わり、自分で判断し決めたことが、後から大きな責任となって降りかかってくることに気づきます。それが新たな不安となり子どもを襲いますが、幼い頃から心の中に抱いた不安を、信頼できる大人に解消してもらった体験がないため、新たな誰かに相談もできません。
「そうすることは主体性のないことだから良くない、という否定の感覚のみが強く刷り込まれているのです」(同)。
悶々とするうちに、一つの対応策が浮かんできます。それは自己決定をしなければならない場面から意識的に遠ざかることであり、「ひきこもり」の始まりです。高塚氏は、「ひきこもり」の多くは、自己決定・自己責任の世界からの回避願望がもたらす現象にほかならないと考えるに至ります。
P197
高塚氏はある審議会の席上で「今、私達カウンセラーのもとに通ってくる子どもたちの保護者の職業は、教師・医者・看護保健等の従事者・弁護士・大学教員・研究者など、いわゆる知的職業に従事している人が少なくない」と発言し、多くの反論を受けたのですが、皮肉なことにこれらの職業には審議会の構成メンバーの職業が網羅されていました。
しかし、カウンセラーとして「今日の社会で、知的職業に従事する人たちが考えたり行動したりしやすい生き様の中に、「ひきこもり」を生じさせやすい鍵が潜んでいるという感触を持ったのです」と主張します。その鍵が、「親の自立脅迫的な子育てと、その影響下に置かれた子どもの、自立することへのこだわり」なのは、容易に見て取れます。
「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
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