文を以て友を会し、友を以て仁を輔く [対人関係]
二四 曽子曰わく、君子は文を以て友を会し、友を以て仁を輔( たす )く。
~中略~
曽先生がいわれた。
「 君子は学問によって友だちを集め、友だちの交わりによって仁徳の完成を助けとする 」
顔淵篇
論語
孔子 ( 著 ), 貝塚 茂樹
中央公論新社 (1973/07)
P349
維新後、堺県が置かれ、明治三年、薩摩人の税所篤(さいしょあつし)(一八二七~一九一〇)が知事(明治四年以後は県令)になって十一年間在任した。在所は同藩出身の西郷隆盛、大久保利通とは青年のころからのまじわりで、同士として文字どおり断金の仲だったから、中央政府への顔もきき、県政の業績が多く、明治初年の地方官としては長州出身の京都府知事槇村正直とともに出色の人物であった。
この税所が明治初年、堺県の失業士族の救済になやみ、ついに高師ノ浜一帯の松を伐って(薪にしかならなかったろうが)それをもって費用にあてた。
ときに征韓論さわぎのさなかで、太政官の事実上の主宰者である大久保利通が、東京の過熱した政情からのがれ、保養と称して上方(かみがた)を遊覧し、堺にきて税所に会い、その案内で高師ノ浜に立った。
このとき磯の松の惨状を見、内心、慄然としたが、江戸的教養というのは親友の仲でも声を荒らげてどなるということはなく、諷(ふう)して相手にわからせるのが、いわば作法であった。
大久保は歌を作り、属官に気づかれぬように、そっと税所に見せた。
音にきく高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけり 世のあだ波とは、維新直後のあらあらしい旧態否定の諸現象をさすのであろう。この当時、大久保は無学といわれたが、この和歌は古歌をよくふまえて当意即妙の機智を感じさせる。
税所はとっさに大久保の諷するところがわかり、とりあえず歌で返事をした。
~中略~
自分の失敗を正直にのべたあと、大久保の政治感覚のやさしさをたたえている。
街道をゆく (14)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1985/5/1)
P142
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