豈に是れ交遊ならんや [倫理]
刺を投じて空しく労するは原(も)と生計にあらず。裾(すそ)を曳(ひ)いて自ら屈するは豈に是れ交遊ならんや
名刺を差し出して、大臣の所へ日参するとか、官僚の所へ、あるいは某大会社の社長さんとか重役さんとか、あっちへ名刺を持っていき、こっちへ名刺を持っていって、それこそ功名を図り、生産を治める。
こんなものは元を尋ねれば、突きつめて言えば、人間の生きる計りごとではない。
「生計」とは「人生の五計」でも詳しく説明しているが、単に日常の暮らし、金をこしらえる、生活の道を立てるという生計ではなく、もっと根本的・本質的な生計、われらいかに生くべきやという人生至極の問題であります。
~中略~
「裾を曳いて自ら屈する」とは、昔の礼装で、礼服を着て、腰を低くしてご機嫌をとってまわるということ。それが「豈に是れ交遊ならんや」である。
こんなことが本当の交際と言えるかどうかというわけだ。~略
酔古堂剣掃「人間至宝の生き方」への箴言集
安岡 正篤 (著)
PHP研究所 (2005/7/1)
P22
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