宗教の役割 [宗教]
牧師であり大学教授でもある鈴木崇臣(たかひろ)氏の「韓国はなぜキリスト教国になったか」(春秋社、二〇一二年)では、韓国ではこの四〇年間に爆発的にキリスト教徒が増え、いまや人口の四割を占めるほどになったという事実がくわしく述べられている。
そしてその背景に、「とにかく何かのために祈る」というこの国の人たちの純粋性とともに、「祈らざるをえない」という彼らが置かれてきた歴史的、社会的な苦難の状況があったことが指摘されている。
実はいま中国でもひそかにキリスト教が広まりつつあるといわれているが、その中心になっているのは富裕層ではなく貧困層や若者たちだという。つまり、ここでも出発になっているのは、「神さま、弱い私を見捨てないでください、お救いください」という小さな声での「祈り」ということだ。
一方、日本ではどうなのだろうか。仏教、神道に親しみを持つ若者は増えているように見えるが、最初の例でも明らかなように「パワー」とか「仏像」「鳥居のデザイン」など”宗教の周辺”であればよいのだが、中核的な信仰に関する問題となるととたんに警戒してしまう。
~中略~
紀藤(住人注;正樹)弁護士は著書「マインドコントロール」(アスコム、二〇一二年)の中で、日本の既存宗教に対して「魂の救済にコミットしてないことを猛省せよ」と強い口調で呼びかける。
いまの日本では、深い悩みごとを抱え、誰かに話したい、人生を決めてもらいたいと望んでいる人は少なくない。
しかし、宗教がそういう人たちひとりひとりにしっかり向き合おうとしないからこそ、営利目的の宗教まがいの集団などが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、マインド・コントロールの被害者になる人が後を絶たないのだ、というのが紀藤氏の主張だ。
~中略~
ということは、日本にはおこまでのシビアな状況がなく、「祈らなくても何とかなるよね」という雰囲気の中で宗教が必要にされてこなかったのではないか、と考えることもできると思う。
しかし、紀藤氏はそうではなくて、実は困難な状況に置かれて「助けてください」と祈りたい人も多いのに、それにむしろ宗教が応えられていないのが日本、という考えだ。
~中略~
本当は「私が進む道に光を与えてください」といちばん祈りを必要としているのは日本の若者なのかもしれないが、彼らは正しい意味で宗教と出会えないまま、いたずらに心霊スポットめぐりを続けているのだとしたら、事態は結構深刻だと考えられる。
若者のホンネ 平成生まれは何を考えているのか
香山リカ (著)
朝日新聞出版 (2012/12/13)
P198
国家も社会も、決して本質的には個人を守るものではない。
いい行いをしたからといって、現世で神仏がその人だけを特別扱いして守る、ということもない。
しかし神仏の恵は内面において信じられないほど豊かで複雑だ。信仰があるとないとでは、心に大きな違いがある。
人生の原則
曾野 綾子 (著)
河出書房新社 (2013/1/9)
P58
立松 発心とは、やむにやまれぬものでなければならないと道元はどこかで言っているんですけど、やむにやまれぬというのは心が決めることで、論理ではないんですね。
五木 ないです。 それと、やっぱりよくいわれることだけれど、ウィリアム・ジェームズという人が「宗教的経験の諸相」の中で、人間にはヘルシーマインドとシックマインドがあって、宗教的なものに惹かれるのはシックマインドだと言っている。
ヘルシーマインドには宗教は必要ない、と。シックマインドというのを「病める心」と訳されるとちょっと具合が悪いんだけど、僕は「悩める心」と訳すればそれも言えるんじゃないかと思いますね。
本来どうしても生きがいとか、生きている意味とか、死とかいうことを、つきつめて考える性格の人と、それからどんなに言われても、そういうことを全然意識しない人がいるというように、性格の違いはありますから。~後略
親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)
P86
五木 いまだに、合格祈願だとか病気平癒の祈願は多いでしょう。それはいつまでたってもなくならないと思う。中国であれだけ大きな革命をやって、仏教寺院を叩き壊したけれど、いままた中国は仏教全盛です。ただし、いまの中国の仏教というのは、全部現世利益ですね。
何か目に見えない力にすがって、いまの自分の顔貌を実現したいという気持ちは、人間がいるかぎり永遠に消えないでしょうね。ですから占いの人も減らないだろうし、いわゆる超能力者もなくならないだろう。
P290
立松 結構みんな宗教には興味があるんですよね。何かを求めようとしているわけでしょうね。
神社でお賽銭あげればそれだけで願いがかなうなんてみんな思ってやいやしませんけどね。神や仏に願いごとをするというのは、合格できますようにとか、あの人と結婚できますようにとか、金持ちになれますようにとか、仕事がうまくいきますようにとか、やっぱり煩悩みたいなところが多いですよね。
五木 ただ、何となく、いまは宗教的なものへの自然の時代の流れというか、関心があることは事実なわけです。「阿修羅展」はあれだけの人が集まって、阿修羅像の表情を見に来て、感激して言葉もないなんて言っている若い人も多かったですね。ああいう像とか、そういうものに対して最初から拒絶反応があれば、人はやっぱり見ないですから。
親鸞と道元
五木寛之(著),立松和平(著)
祥伝社 (2010/10/26)
P287
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