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意味への意志 [哲学]

「意味への意志」
 この言葉は、右にのべた二つの意志、すなわちフロイド的な「快楽への意志」とアドラー的な「力への意志」に対して、フランクルがそれらよりも人間にとってより本来的な意志であるとして提起したものである。
フランクルは言う、「人間は結局そしてもともと、意味への意志と言うか、自分の人生をできる限り意味で充たしたいとの憧憬によって魂―と言わぬまでも精神を―吹き込まれて、それに従って、生きがいのある生活内容を得ようと努め自分の人生からこの意味を闘い取っています。
われわれは、この意味への意志が充足されずにとどまる時に初めて、またその時に限って―人間はますます多量の衝動満足によってまさにこの内面的不充足を麻痺させ、自分を酔わせようと努めるのだと信じます」(「時代精神の病理学」(フランクル著作集3、みすず書房、一九六一年-九八)
 この「意味への意志」は、さきの二つの意志が生理的欲求と社会的欲求であるのに対して、実存的欲求であるということができるであろう。

それでも人生にイエスと言う
V.E. フランクル (著), 山田 邦男 (翻訳), 松田 美佳 (翻訳)
春秋社 (1993/12/25)
P182

IMG_0037 (Small).JPG文殊仙寺

P184
 生命とか人生の意味とかは何かということを問題にする場合、われわれは通常、それを自己の方から、つまり自己を中心にして、「われわれは人生から何が期待できるか」という観点から問う。この観点は、いわば自己を世界の中心にすえて、自己から世界を見る見方、つまり自己の利益という観点から世界を見る見方である。
このような見方はしかし、例えば強制収容所における絶望的な状況では耐えることができない。なぜなら、そこではもはや何ものも世界から期待できないからである。「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていない」と語らざるを得なかった人々は、やがて次々と仆(たお)れていったのである。
 この絶望的な状況はしかし強制収容所に限らない。われわれの存在はすべて「死への存在」(ハイディッガー)として、根本的に同じ限界状況に置かれているのである。
このことは、収容所で仆れていった人々と同じように、「われわれは人生から何を期待できるか」という自己中心的な人人生観ではこの限界状況に耐えることができないということを意味している。
そしてこの自己中心的な人生観は、先にのべた「快楽への意志」と「力への意志」の人生観に他ならない。
それらは、自己の「快楽」。自己の「力」の追求として、自己のためであるが、その自己が結局何のためか、という問いに対する答えはそこからは出てこないのである。
「われわれは人生から何を期待できるか」という自己中心的な人生観は、自己存在そのものの意味にとって原理的な限界をもっているのである。
 それ故、この人生観は、「人生は何をわれわれから期待しているか」という観点に変更されねばならない。それは、自己から人生を問うのではなく、人生から自己を問う、というように、人生観を一八〇度コペルニクス的に転回することである。
解説 山田 邦男

「絶望」という気分も、自然治癒力を停止させます。~中略~
自然治癒力が心理的に停止されると、特別病名がつくような状態ではないけれども、全体の生理機能が低下して、死んでしまいます。

神田橋條治 医学部講義
神田橋 條治 (著), 黒木 俊秀 (編集), かしま えりこ (編集)
創元社; 初版 (2013/9/3)
P059

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