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患者参加型医療 [医療]

ただ、患者に決めてもらうというのは医師の責任逃れのためではない。僕は十分に説明した上で、いくつかの選択肢がある場合、自分はその中で何がよいと思っているかを必ず話す。中には明らかにその選択肢がよいと言い切れる場合もあるし、僕自身に迷いがあることもある。そんなとき、僕は迷いがあることも含めて伝える。
明らかにこれがよいとすすめても、中には納得してくれない患者さんもいる。そんなとき僕はとことん時間をかけて説明する。場合によっては日をあらためて再度説明しなおす必要のあることもある。
そんな患者の中にはじぶんの希望通りの治療をしてくれるほかの医療施設を探してそちらに行ってしまう人もいる。でもそれはそれでまったく問題のないことだと、僕は思う。
 患者参加型の医療は患者側に判断を丸投げして、医師が責任を逃れるということではないし、サービス業のように患者の望む医療であれば医師側は何でもするということではない。
医師側、患者側双方がお互いに納得して治療に当たるということだ。当然、医師側がこうすべきだと思うことは伝えるべきである。そして、お互いの気持ちがぴったりと合って納得して治療が受けられるとき、本来の患者参加型の医療が始まると、僕は思う。

「NO」から始めない生き方~先端医療で働く外科医の発想
加藤 友朗 (著)
ホーム社 (2013/1/25)
P163

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P069
 そして「インフォームド・コンセント」をみなさんは知っていると思いますが、インフォームドコンセントは「正しい事実を伝える」ということではなくて「確かであるということ、確かであるという感じを伝える」ということなんです。
実際には確かでなくても、「確かである」と患者さんが思えばいいの。思えばそれで病気がよくなる。
だけど嘘の情報で「確か感」を作るわけにはいかないので、やはり医療の中でのデータをできるだけ正確に患者に開示することで「確か感」を作るわけ。
 だけど今は、このインフォームド・コンセントという「確か感」を与える方法を通して、これもまた非常にしばしば、依存してゆく雰囲気を壊している。「こっちの手の内は全部見せましたからね。さあ、あとはどうしますか?」ということで、対等な契約関係があるでしょ。
全部手の内を明らかにして、情報の公開だ。政府と国民はみな同じ情報を持っている、ということと同じ対等の関係。
そうすると依存は拒否されている雰囲気がでてきますね。だから、ここがインフォームド・コンセントの難しいところだね。
~中略~
インフォームド・コンセントが今、悪用されているのは、「言っとかないと裁判で訴えられると負ける」という話で捉えられている面があるからなのね。
~中略~ それには、「この手術によって目が見えなくなる可能性がある、片足が動かなくなる可能性がある、わずかですが、全身が麻痺して寝たきりで一生を終わるようになる可能性がある」と、考えられる危険を全部列挙して、「こういうような危険があることを、ちゃんと書面によって通知されて、わたしはそれにもかかわらず手術を承諾します」と署名してはんこを押して、それから手術してもらう、という手続きが今もある。どうですか、ないですか?
 それを読んで、ものすごく驚いて、手術どころじゃなくなった人がいた。「私は手術をしたら、目は見えなくなるわ、片足は利かなくなるわで、寝たきりで廃人になってしまう。脳の手術をしないほうがいいだろうか?でも、しないと脳腫瘍のために廃人になるんじゃないだろうか?」とパニックになって、精神科に回されてきて、手術は取りやめになった人がいました。
~中略~
 だから正確なデータというのも、やはりちゃんと保護して、その人と絆を作って、「こういう危険があるけれどもやりましょう」となれば、シェルパと登山家の関係みたいなもんだ。
「私が付き添って、あの、八〇〇〇メートルの山に登りましょう」ということで、危険を共有してやっていく関係の提供がなくて、「はい、これこれだけですよ。いいですか? 嫌ならしませんよ」となったら全然絆にならない。

P077
だけど、どこかで信仰が破綻したら、「ああ、だまされていた。教祖様にだまされていた。殺してやる」というようなことになって、お医者さんが訴えられる。
言うことを聞いたときには、あまりにも強く言って従わされたから、「その通りしとったのによくならんかった」となって、訴訟になる。
「私の言うことを聞きなさい。私に任せれば治るから」と言うのは、患者の側には任せたい気持ちがあるから、言われるとすごい誘惑になって、うまくいかなかったときには、「甘い言葉にだまされた」ということで訴訟を、となる。そこのところが難しいんだな。
 だから自然に発生してくる依存的な傾向は受け入れてあげなきゃいかんけれども、それをさらに掻き立てて、膨らませるようにしてはいかんの。そうすると必ず訴えられることになります。

神田橋條治 医学部講義
神田橋 條治 (著), 黒木 俊秀 (編集), かしま えりこ (編集)
創元社; 初版 (2013/9/3)

アメリカには国際機能性消化管障害財団(IFFGD)という、IBSをはじめとするこの種の疾患の強力な患者団体がある。 この患者団体がアロセトロン撤退に待ったをかけたのである。
その財団長が傑物のナンシー・ノートンだ。~中略~  ノートンは、IBS患者の存在を説き、上院議員たちを動かし、専門家の限定使用ではあるものの、見事にアロセトロンを復活させたのである。
彼女の行動は、医療の今後の方向性を示している。医療のあり方は政府、製薬会社、医療機関だけではなく、その疾患に最も苦しむ患者も参加して決めるということだ。
 しかも、専門家の正しい情報を患者団体がきちんと分析し、ある程度の危険性のある治療も辞さない勇気と治療の選択肢を残したわけだ。
医療が医師と患者の相互協力で進歩するということの見本のような話である。日本の社会もアメリカに学ぶとすれば、医師と患者がいがみあう訴訟の多さなどではなく、ナンシー・ノートンの精神こそ学ぶべきであろう。

内臓感覚―脳と腸の不思議な関係
福土 審(著)
日本放送出版協会 (2007/09)
P145

 さて、ヒポクラテス以来のパターナリズムは、過去の遺物であるのか。できすべき旧来の陋習(ろうしゅう)であるのか。私はそうは思わない。インフォームドコンセントを大切にする多くの「良心的」な医者はこう言う。
「患者に選択を一任するのはもちろん無責任であろうが、患者とともに考え、助言し、患者の自己決定をサポートするのが本来の姿だ」
しかし、多くの場合、患者は選択したくないのだ、と私は思う。怖いから。
人に決めてもらった方がその意味で楽だから。 「お任せします」とよく言われる。「素人だから分からないし決められない」と。
~中略~
 ミシガン大学のカール・シュナイダーのデータによると、患者の多くは、病状を説明してもらいたいが、治療選択は医者にしてほしい、と希望するそうだ。圧倒的多くの場合、パターナリズムなくして医療は成り立ちそうにない。

偽善の医療
里見 清一(著)
新潮社 (2009/03)
P159


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