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こんな日本に誰がした [日本(人)]

もう高校生になった子供に対し、親の方から積極的に働きかけて「サンタの夢」を現実生活の中に創造したり、その同じ「夢」の世界の中で親子が一緒にプレイするような所まで進化し始めている。
それはまるでディズニーランドのシンデレラ城の中で観客を動員して行われるアトラクションにも似ている。そして、近年のこんな親たちの「努力」が功を奏したのか、「まだまだサンタの健在」の家庭が増え、いまでは中学生になっても高校生になっても、サンタクロースからのプレゼントを貰い続ける子供たちが、約五割に達しようとしているのである。

普通の家族がいちばん怖い―徹底調査!破滅する日本の食卓
岩村 暢子 (著)
新潮社 (2007/10)
P12

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P16
 だが気になるのは、中学生や高校生になる子供に対して「いつまでもサンタクロースを信じているような子どもでいてほしい」「子どもにはずっと夢を見続けていて欲しい」「大きくなってもあまり現実を見ないでいてほしい」と、近年親が思うようになってきたことである。そして、サンタクロースの「夢」を共有してくれなかった子供とは、心が通じ合えなくなるような寂しさや不安さえ親が語るようになってきたことである。

P17
 理由は様々に語られるが、近年このように元旦の御節をまったくたべない家庭が増加している。
第二次調査時点(住人注;2004年12月~2005年1月)では既に全体の二割強に達している。「御節も一応用意する」家庭でも、市販の蒲鉾や伊達巻などの一品~二品だけお印のように用意して「御節」と言っている家庭もある。それらも含めると三割以上、約三分の一(第二次調査)の家庭が、元旦にほとんど御節らしいものを食べなくなっているのが実態である。
 だが、そんなことは既に特筆するに値しないかもしれない。御節の有無どころではないこんな家庭も増えているのだ。
元旦の食卓には「袋入りのロールパン、菓子パン、シリアル、インスタントコーヒー、みかん」などが無造作に放り出されている。この家の主婦(41歳)に聞けば「これはみんな各自(子供11歳・9歳)勝手に起きて、バラバラに食べたものなんです」と言う。普段から家族で食卓を囲む習慣がこの家にはないため、正月だかといって食卓に家族が揃うことはない。

P19
 元旦も二日も、主婦(36歳)が昼近くまで寝坊して起きてこなかった家もある。彼女は、「子供たち(7歳・5歳・2歳)には、夫がお雑煮を作って食べさせてくれているみたい」と言い、自分はあとで起きて元旦は一人インスタントラーメンを、二日はトーストを食べている。
 このように御節の有無以前に、元旦であっても家族が揃わず、親も子も「好きな時間」に「好きなもの」を勝手に食べる家族が増えている。第二次調査では、家にみんないても、元旦の食卓に家族が揃っていない家庭が四割である。

P20
 こんな実態を見て「今時の若い親は」とか「核家族だから」と眉をひそめる人もいるかもしれない。だが、それは帰省して祖父母の家で正月を迎えた家族でも見られることである。大晦日から帰省しながら、元旦は寝坊して起きない親(主婦)たちも少なくない。祖父母世代にそれをとやかく言う人はほとんどいない。
夫の実家で元旦を迎えたある主婦(36歳)は、元旦から寝坊して「子供にはなんかおばあちゃんが適当に食べさせてくれたんじゃないですか」と言う。
食べ残しの写真を見れば、「ピサ、トースト、菓子パン」である。それを」みな起きた順に、パジャマ姿のまま勝手に食べている。ただ一人雑煮を食べたがるおじいちゃんには、一人分の雑煮をおばあちゃんが作ったというが、他の家族は誰も雑煮を食べていない。

P29
近年(第二次調査)では四軒に一軒の家庭が「御節は夫婦いずれかの実家で食べる」ようになっている。~中略~
「お正月は、私の実家か主人の実家に行けば朝からばーんと御馳走が出ますから、「御節は実家に帰って食べるもの、私は作らないもの」っていう感覚です。<44歳>とか、「毎年暮れから夫の実家へ行くので、お正月の準備など人生の中で一度もしたことがない。自分では面倒くさいですから」(42歳)と言う主婦たちに、恥ずかしさや後ろめたさはまったく見られない。
中高生以上になるその子供たちは、自分の家で母親が御節を作る姿を今まで一度も見たことがないのだ。

P39
 いくつになっても「お客様」として、親世代の祖父母たちに甘え「してもらう」主婦たち。自分が手伝ったり、主催者になって人を「もてなす」ことには強い抵抗を示す。
それは主婦だけでなく、同行している夫も同様ではないだろうか。このようなことは決して若い主婦だけでなく、30代後半、40代、あるいはそれ以上の、いま子どもを育てている中堅世代の親たちの特徴となっているのである。

P56
そして主婦たちは、口を揃えてこう言うのだ。「なぜお供えやお正月飾りを飾るのか、親から理由を聞かされたことなんて一度もなかったです」(43歳)「『こうだからやる』っていう意味を親から教えてもらった記憶がないんです」(38歳)、「親がなんでやっていたのか、私は聞いたことがないんです」(41歳)。

P62
 こうしてみてくると、幼い頃からずっと正月を「してもらいたい」「見てきた」だけの主婦たちは、自分たちの代になったからと言って自分がするわけではない。「お正月は泊りがけで両方の実家を回って過ごす」と言うある主婦(39歳)は、「自分の家に帰ってきたら、家族だけでゆっくり外食に行くので、自分の家の味なんか必要ないんです」と言っていた。そうは明言しない人たちも、「してもらう」先を実家の親からホテルやレストランに変えていくだけである。
いずれは自分が「する人」としてではなく、「してもらう人」として、ただ「見ていた」だけのことは、どうも伝承されにくいようだ(127頁参照)。
 そして、正月の親子三代の集まりで今の子供たちが見ているのは、先に述べたように40代の母親(主婦)が70代の祖母一人に働かせて上げ膳据え膳してもらっている姿や、50代の父親が80代の祖父に{お年玉」を貰っている姿だったりして、子どもから見た「親」の姿も、従来とはすっかり違うものになっていることを見逃してはならない。

お寺で年輩の人とかかわっているとすぐわかることなのだけれど、多くのお年寄りは意外に進歩的だ。おそらく高齢の人は、歴史的に見ても特異な技術発展の中で生きているので(昭和初期と現代の生活を、煮炊きから電気器具まで比べると歴然としているように思う)意外と新しい存在の方を支持することが多く”過去のもの”に対して思いのほか冷徹な側面がある。
もしかしたら、戦争での体験のようなことも影響しているのかもしれない。

白川密成 (著)
ミシマ社 (2010/1/28)
P70

ボクは坊さん。

ボクは坊さん。

  • 作者: 白川密成
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2010/01/28
  • メディア: 単行本



P22
 明治が革命にならないで、維新で立派にやれたということ、この問題だけでも大変なことなんですけれども、結論を申しますると、やはりこれは人物と教養との問題でありまして、東洋の政治学で言いますと、能率の究極は、
「賢を尊んで」、「能を用い」、「俊傑位にあり」
 これは「孟子」の中にある有名な言葉でありますが、この三つに帰すると思います。
明治維新のあんなに能率・格調等立派にいったのは、なんと申しましても、少なくとも幕府以来の学問・教養・人物のおかげであります。

P24
この幕府を通ずる教学の力、それから田舎武士の力、それと武士の娘・武士の妻の力、
この三つが明治維新を大いに成功せしめ、徳川の幕府政治を三世紀近く保ち、なおその遺徳によって明治の日本の建設に非常に貢献をしたということであります。

P29
人間には、―これは人間学というものの根本問題の一つでありますが、―要素ともいうべきものが、大きく分けると二つになるわけですね。
第一は、これがなければ、人間の格好をしておっても人間でない、これあるによって人が人であるという、いわば本質的要素であります。
それから(もう一つは)、あればあるに越したことはないが、ある、ない、というのは多少の程度の差で、しかし非常に大事なもの、これを前の本質的な要素に対していうならば付属的要素というべきもの。それともう一つ付け加えれば、これは徳性、本質的要素に関連するもので、習性、習い性となる習性というものがあります。
 この本質的要素が、すなわち人間の道徳性、徳性であります。それから付属的要素の代表的な二つが知能と技能であります。知識・技術であります。それから第三の、どちらかといえば徳性に準ずべきものが習性、すなわち躾というものです。
 ところが明治教育というものは、学校教育一本ということになりまして、昔、徳川時代のような各藩における学校、郷学、そういう多様性、diversity,varietyというものがなくなってしまって、非常に単一になって、そして大事な本質的要素を、人物・徳性というものを養うことは修身教育ぐらいになって、これがほとんど話にならんことになってしまった。まだいくらか躾というものが残りましたが、全力を挙げて知能教育、技能教育、すなわち知識・技術の修得になったわけです。

P31
大正時代、第一次世界大戦が始まりますまでは、割合にその祖先の遺産でなんとかできたのであります。この第一次大戦が日本の非常な反省、試練になれば、日本はあそこで大きく自己を取り返せたのですが、この世界大戦で日本は、ほとんど犠牲らしい犠牲を払わずに、戦争に便乗して大儲けをした。この時に日本に初めて成金というようなものができて、札びらが全国に舞ったわけであります。
これで明治末期から大正にかけての日本の頽廃と堕落が一ぺんに吹き出したわけです。
 そこで昭和の初めになって、俄然として「昭和維新」ということが叫ばれるようになりました。
ところが、理論闘争は非常に盛んでありましたが、明治維新と違ったことは、(その中心人物たちが)そういう伝統的な教学と修養というものをしていないので(これは右派も左派も同様)、理論は達者で意気は盛んであるけれども、人間は練れておらぬ。したがって見識とか器量とかいうものはできておらぬ。
この短所が、第一次世界大戦の日本で言いますると、大正・昭和の初期の革新運動をいたずらに、あるいは国家社会を混乱に落とし入れた。
まだ国内は秩序を割合いに維持しておりましたから、それが転じて満州に反映いたしました。ここに満州事変の勃発となったわけであります。

P35
そこで日本が、いわゆる王道政治、理想の政治を実現して、中原、すなわち中国に野心を持たぬということを堂々と声明して、漢民族を安心させれば、歴史は違ってきたのでありますが、その関東軍や、満州の建国に非常な野心を深めた連中、あるいは、それに参加できなかった野心家、事を好む連中が、満州をしてやったから、今度は北京を取ろう、上海を取ろう、ベトナムに行こう、どこにも縁のない者は豪州を征服しようなんていう、当時日本に建国病というものがはやりますた。
これが、国内革命をはかばかしくやることのできないテロリストをして、このほうへ血道をあげさせることになりまして、とうとうこれがシナ事変となり大東亜戦争となって、ああいう悲劇的結末をつけたのであります。
孫文などは、満州などは、日本にまかせてもよい、ということを言っておった。よく歴史の真理と政治学・哲学がわかっておれば、東洋の局面はすっかりかわっておったのでありますが、まことに千載の恨事というものは、こういうものだろうと思うのです。
 それは一に、本当の意味の学問がなかったということです。いわゆる知識・技術というものはあったが、、「人間学」というものがなかったということがいちばんの原因であります。

P36
 この欠陥が終戦後また現れまして、占領軍の日本統治に対して対応する仕方を全く誤りました。占領軍は、むしろ日本を非常に買いかぶっておりましたから、いかにこれを占領・支配し、かつ、いかにこれをアメリカナイズするかということにたいへん研究を積んでおります。
このアメリカのGHQの対日政策がどのような原理によって行われたかということは、これが皆さんご承知かと思います。非常に巧妙な解説でありますが、たとえば3R、5D、3S政策というものです。
~中略~
 日本を全く骨抜きにするこの3R・5D・3S政策を、日本人はむしろ喜んで、これに応じ、これに迎合した、あるいは、これに乗じて野心家が輩出してきた。
日教組というものがその代表的なものであります。そのほか悪質な労働組合、それから言論機関の頽廃、こういったものはみな、この政策から生まれたわけであります。

安岡正篤
 運命を創る―人間学講話
 プレジデント社 (1985/12/10)

運命を創る―人間学講話

運命を創る―人間学講話

  • 作者: 安岡 正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 1985/12/10
  • メディア: 単行本




  

P106
日本も明治で言いますと、明治天皇の晩年までは、世界の奇跡といわれるほど躍進した。ところが、維新の元勲が世を去って、二代目が跡取りになって、明治末期から大正の初めにかけては、、物堅い間違いのない、しかし前代の気風をやや受けてしっかりした人々がいた。
私などは大正の初めには、このクラスの人を革命創業の気風を解する、いい意味の継体守文的な人としてよく知ることができた。
それが大正末期から昭和の初めに入ると、政界でも経済界でも思想界でも、「無為呼息、ただ過ちなきをこれ務む」というふうに日本の指導層がなってきた。
 そこに第一次世界大戦を経験して、こんな状態では萎靡(いび)沈滞して混乱破滅してしまうというので、昭和の初め頃から革命創業の説が盛んになってきた。誰が始めたかというと青年将校である。それから満洲だの北支だのへ行っていた満鉄その他、国家機関としての産業界に勤めていた意気盛んな青年、さらにそれらと共鳴した内地の青年官僚、大学生など、いろいろの連中が革命創業の想像に駆られたのです。
想像に駆られたが、彼らは本当に三国の時代、楚漢の時代、あるいはヨーロッパでもしばしば経験しているような、国を挙げてての激しい動乱のなかで鍛えられ、そこから生き抜いてきたのでない。
日本という島国の、大陸の風雲の及ばない、長いあいだ無為姑息を続けてきた環境の中に育った連中であるから、気概だけは盛んであったけれども、精神も頭脳も鍛えられていない。英雄豪傑的学問・鍛錬を受けていない。
だから大いに革命創業を気取ってやったけれども、やったことは実は非常な混乱破滅を起こしたにとどまるのです。
そして事志と違い、満洲でやり損い、ついで大東亜戦争をやり損なって、本当に日本をぶち壊してしまった。これは日本の悲劇です(三六頁参照)。
 日本はドイツやイタリアのように国土に敵を受けて、敵に席捲され蹂躙されて地獄の苦しみを嘗めたというなら、かえって革命創業へ進むことができたかもしれない。
ところが日本は、沖縄だけは例外だったが、本土を水火の地獄に陥れるということはなく、平和的終戦をして、米軍が一兵を損ずることなく無血進駐した。その結果、油をしぼられるようなひどい目にあうかと思うと、そうではなかった。
それまで飲む物も食う物も見る物も何もないという、長い戦争による疲労困憊のところへ進駐軍が来てくれて、酒も飲める、煙草も吸える、雑誌も読めるし映画も見られる、男女関係も解放される。進駐軍さまさまということになって、敗戦国としてはまことに甘やかされたことになった。そして憲法から始めて、みな先様お手盛りの物をありがたくいただいた。~中略~
 例えば、労働組合でも日教組でも、共産党でも、みな進駐軍のおかげでこしらえてもらって、進駐軍に尻を叩かれてにわかに強くなって、革命革命と言いだした。

P32
 歴史的・伝統的な深い人間学、正しい節義、そういうものを失って、近代の非常に非人間的なイデオロギーと、それに粉飾、カモフラージュされた野心とが大荒れに荒れたということが、(昭和敗戦の)大破壊を招いた最大原因であります。

P33
 あのときの日本の一番の欠点は、第一次大戦に漁夫の利を占めて、世界各国の非常な不幸・禍を種にして日本が金儲けをした。
津々浦々に札ビラが舞い、成金が出て、好景気に酔ってしまった。日本人が従来の伝統的な良識や節義を失って、唯物主義・功利主義・享楽主義・デカダン生活をほしいままにした。
そこへ戦後の無政府主義、社会主義、共産主義というような、懐疑的、破壊的、虚無的思想の影響があって、国を挙げて精神的・道徳的あるいは敬虔な宗教思想を失ってしまった。
左翼は外国の真似に走り、右翼はそれに対抗しながら、やはり多分に時代の悪風にかぶれた。これが日本の恐るべき破滅に駆りたてた原動力であります。我々は今日も、これを深く反省しなければならぬと思うのであります。P34
満洲事変当時、張作霖軍閥が蟠踞(ばんきょ)しておったのでありますが、この張作霖がもう少し中国伝統の思想学問を修めていたならば、私はこういう東亜の悲劇は免れ得たと思う。
 当時満洲に王永江という人がいた。彼は満洲の諸葛孔明といわれた人で、本当の名宰相でありました。この人が張将軍のために熱心に保境安民策を進言した。
これは「中原に進出して天下を制するという野望を起さずに、もっと満洲に善政を布(し)きなさい。そうして隣国日本その他と、つとめて隣邦の誼(よしみ)を正しゅうして、もっぱら三千万民衆の安寧幸福をはからなければならぬ」というのです。
彼の補佐によって張作霖は非常に力を養ったのでありますが、実力がついてくるにしたがって、彼は満々たる野心の抑えようがなくて、ついに禁を破って中原に進出した。
~中略~
 日本が満洲に発展するとともに、満洲国がせっかく「王道楽土の建設」ということを標榜したのでありますから、日本が今少しく謙虚に、満洲当局と力を合せて、言葉のとおり王道楽土の建設のために努力をする、王永江のいわゆる保境安民政策をとって慎重に力を養ったならば、これまた歴史を変えたであろうと思う。

知命と立命―人間学講話
安岡 正篤 (著)
プレジデント社 (1991/05))

知命と立命―人間学講話

知命と立命―人間学講話

  • 作者: 安岡 正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 1991/05/01
  • メディア: 単行本






P240
 明治末年から日本は変質した。先勝によってロシアの満州における権益を相続したのである。がらにもなく”植民地”をもつことによって、それに見合う規模の陸海軍をもたざるをえなくなった。
”領土”と分不相応な大柄な軍隊をもったために、政治までが変質して行った。その総決算の一つが”満州”の大瓦解だった。この悲劇は、教訓として永久にわすれるべきではない。
 君子ハ為サザルアリ、ということばがあるが、国家がなすべきでないことは、他人の領地を合併していたずらに勢力の大を誇ろうとすることだろう。その巨大な領域に見合うだけの大規模な軍隊をもたねばならず、持てば兵員をたえず訓練し、おびただしい兵器を間断なくモデル・チェンジしてゆかねばならない。
やがては過剰な軍備と軍人、あるいは軍事意識のために自家中毒をおこして、自国そのものが変質してしまうのである。
たとえば、歴史の中の日本人というのは、貧しいながらおだやかで、どこか貧乏に対してとぼけたところのある民族だと私は思っているのだが、重軍備をもったあとの近代史の中の日本人は、浅はかで猛々しくて、調べていてもやりきれないおもいがしてしまう。

P254
自国の歴史をみるとき、狡猾という要素を診るときほどいやなものはない。 江戸期から明治末年までの日本の外交的な体質は、いい表現でいえば、謙虚だった。べつの言い方をすれば、相手の強大さや美質に対して、可憐なほど怯えやすい面もあった。
 謙虚というのはいい。うちに自己を知り、自己の中のなにがしかのよさよさに拠りどころをもちつつ、他者のよさや立場を大きく認めるという精神の一表現である。
明治期の筋のいいオトナたちのほとんどは、国家を考える上でも、そういう気分をもっていた。このことは、おおざっぱにいえば江戸期から引き継がれた武士気分と無縁でなかった。
しかし、おびえというのはよくない。内に恃(たの)むものとしてみずからのよさ(文化といってもいい)を自覚せず、自他の関係の力の強弱のみで測ろうとする感覚といっていい。
強弱の条件がかわれば倨傲(きょごう)になってしまう。
 日露戦争のあと、他国に対する日本人の感覚に変質がみとめられるようになった。在来保有していたおびえが倨傲にかわった。謙虚も影をひそめた。江戸期以来の精神の系譜に属するひとびとが死んだり、隠退したりして、教育機関と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた。かれらは、かつて培われたものから切り離されたひとびとで、新日本人とでもいうべき類型に属した。
 官僚であれ軍人であれ、このあたらしい人達は、それぞれのヒエラルキーの上層を占めるべく約束されていた。自然、挙措動作、進退、あるいはしりょんすべてが、わが身ひとつの出世ということが軸になっていた。
 かれらは、自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対し、狡猾に立ちまわらせるものだと信じていた。とくに軍人がそうだった。
 日本における狡猾さという要素は、すべて大正時代(一九一二~二六)に用意された。
国内的には大正デモクラシーとか、大正的な大衆社会の現出をみながら、対外関係においては、後世からみても、卑劣としか言いようのない国家行動が、その立案者にすれば、愛国的動機から出ていた。それを支持したり、煽動したりする言論人の場合も、そうだった。
 国家にも、器量がある。器量とは、人格、人柄、品性とかいった諸概念をあつめて、輪郭をぼやかしたような何かであるとしたい。
 大正時代の日本は、それまでの日本の器量では決してやらなかったふたつのことをやった。
 ひとつは、大正四年(一九一五年)に、北京の軍閥政府に対してつきつけ、恫喝でもって承認させた「対華二十一ケ条の要求」といわれているものである。~中略~
 ついで、大正七年(一九一八年)から数年も執拗につづけられた「シベリア出兵」である。

ロシアについて―北方の原形
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋 (1989/6/1)



P150
 いわゆる「日比谷焼打ち事件」のことで、司馬さんは、これを「魔の季節への出発点」と、とらえました。当時の日本人は何もわかってはおらず、よその国に対して強硬に出て、威勢のいいことを言うことが正しいと信じ切っていました。
 実際には、日本の軍隊は戦線が伸びきって補給もままならず、一刻も早く、妥協してでも講和を結ばないといけない状態にありました。しかし、国内の新聞はきちんとした報道をしません。また政府も日本軍が、じつは苦しいという事実を敵に知られてしまっては講和がうまく運ばないので、真実を国民に説明できませんでした。国民も先勝に浮かれて正しい判断ができず、ただ政府の弱腰を非難して外交担当者の家を取り囲み、日比谷で暴動を起こす始末でした。
 日露交渉にあたった小村寿太郎は、帰国した横浜港で自分の顔を見て、思わず「生きていたのか」と言ったそうです。

P152
 日露戦争に一応勝ったということで、この後の日本人は謙虚さを失っていきます。
日清戦争の勝利によって中国に強い優越感を持ったところに、今度は白人の国に勝ったことで、「世界の一等国に仲間入りした」と言い始めます。
一方で、当時はまだ兵器未国産ではそろえられない小さな国という自覚もあり、その分は士気や教育訓練で補っているという意識がありました。
 日本人というのは、前例にとらわれやすい「経路依存性」を持っています。第二章で触れた「合理主義」の対極にある日本人の性質が「前例主義」(経路依存性)です。日露戦争の勝利の経験も、この「前例」にされてしまいます。
その結果、天佑があるから日本軍は士気が高く兵器・兵力の不足をよく補って勝てるという議論が横溝してしまいます。
 それを司馬さんは特に問題視していたと思います。

P155
 (住人注;日露)戦争で勝った者が華族になり、場合によっては帝国議会の貴族院の議席さえ世襲できるのを見せてしまったのですから、新たに軍隊に入ってくる若者、特に維新で賊軍にされてしまった奥州越の出身者たちも、薩長出身者におくれをとらじと、日露戦争のまねっこ戦争を考えて、自分が華族になる姿を想像するのは当たり前です。
 しかも青少年期に、日露戦争の大陸軍・大海軍の栄光を見て、軍人での立身出世をめざした人たちです。冷静に世界情勢や日本の国力を分析して、軍を縮小しようなどとは思うはずもありません。
海軍の人たちは失業するわけにいかないので、大きいままの海軍を維持して、今度は新しい仮想敵を求めます。ロシアの艦隊を破った後ですから、それはアメリカということになる。司馬さんが理想とした明治のなかに、「鬼胎の時代」の萌芽があったのです。

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史
磯田 道史 (著)
NHK出版 (2017/5/8)


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